出版業界に衝撃が走った。新潮社の論壇誌『新潮45』が廃刊になったのだ。
自民党衆院議員の杉田水脈氏が『新潮45』に寄稿した「『LGBT』支援の度が過ぎる」に端を発する今回の騒動では、文芸評論家を名乗る小川榮太郎氏が書いた「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」が、瞬く間に炎上。差別を助長する文章ではないかと大きな社会問題になった。新潮社社長は異例のコメントを発表し同誌は廃刊の運びとなった。『新潮45』が安倍政権を礼賛するネトウヨ路線に急激に舵を切ったことは出版業界でも話題になっていたが、今回の件は、いったい何が問題だったのか? 小川榮太郎氏とはどのような人物なのか? 『新潮45』はどこで道を間違えたのか?
最新刊『もう、きみには頼まない 安倍晋三への退場勧告』(KKベストセラーズ)を刊行予定の作家適菜収氏が、事件の真相を語る。(前編)■杉田原稿の余波

 歴史あるノンフィクション雑誌『新潮45』が廃刊になった。私も長年にわたり愛読していたし、連載執筆陣の一人でもあった。

『新潮45』廃刊の真相と小川榮太郎氏の正体とは(前編)の画像はこちら >>
小川榮太郎氏の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」が掲載された『新潮45』10月号

 原因は文芸評論家を自称する小川榮太郎という男(51歳)が描いたトンデモ記事が誌面に掲載され、社会問題になったからだ。一連の経緯を簡単に説明しておこう。『新潮45』(2018年8月号)に自民党衆院議員の杉田水脈が「『LGBT』支援の度が過ぎる」という文章を寄稿。LGBTとは、Lesbian(レズビアン)、Gay(ゲイ)、Bisexual(バイセクシュアル)、Transgender(トランスジェンダー)の頭文字によりつくられた言葉である。杉田の「LGBTのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり生産性がないのです」といった部分が批判を浴びていたが、『新潮45』(2018年10月号)は、こうした批判への回答として「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」と題する特集を組んだ。

 批判を浴びた雑誌が反論の特集を組むことは珍しくない。また、反論により議論が深まることは社会にとっても有益だ。たとえそれが社会通念に反するものであれ、あらゆる言論は尊重されるべきだ。

 しかし、今回小川が書いたのは言論ではない。作家の高橋源一郎が言うように「便所の落書き」である。だからこそ、小川を擁護する声が仲間内からもほとんど出なかったのだ。

 新潮社もこの記事を問題視。新潮社の文芸書編集部は、Twitterの公式アカウントに新潮社の創立者である佐藤義亮の言葉「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」を掲げ、小川を批判するツイートを次々とリツイートした。私が連投したツイートもリツイートしていただいた。

 2018年9月21日、新潮社の佐藤隆信社長は「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」と談話を発表。9月25日、編集体制の不備を理由に休刊(事実上の廃刊)が発表された。

 評論家の宮台真司は、「安倍晋三さんの提灯記事で知られる小川榮太郎氏の文は特にクズ」「クズにはクズと罵倒するのが正しい」と言っていた。

まったくその通りだが、小川のような人間のクズ、社会のダニが表舞台に出てくるようになった原因と、現在のわが国の腐り果てた状況との関係を急いで明らかにする必要がある。それが『新潮45』に対するせめてもの供養になると思う。

 ■便所の落書きは消すもの

 小川が『新潮45』に書いた「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」は、文字通り便所の落書きである。

 主張が正しいとか間違っているという以前に、事実関係も間違っているし、日本語も論理展開もおかしい。本文には「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい」とあるが、要するに小川は詳細も知らず、調べもせずに原稿を書いたのだ。「詳細を知らない」のに「違いあるまい」って頭の中、どうなっているのか?

 小川は『Hanada 』(2017年3月号)でも、電通の女子社員自殺問題について、「私はこの事件をよくは知らない。いまも、実はあまり詳しくは知らずにこれを書いている」と述べながら、被害者や遺族をバッシングしていた。

 小川は塾で小論文を教えていたという情報もあるが、たとえば「上田秋成の本居宣長批判について述べなさい」という問題があったとして、生徒が「本居宣長について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが……」と書いたら、何点つけるのか?

 要するに論外。公の場所にものを書いてはいけない人間である。

 小川の記事がネットで批判を浴びるようになると、ネトウヨが「文章の一部を切り取って判断するのではなく、全文を読むべきだ」と言っていたので、全文を読んだが、最初から最後までゴミだった。

 論理展開も支離滅裂。冒頭で「性的嗜好など見せるものでも聞かせるものでもない」と書いておきながら、「私の性的嗜好も曝け出せば、おぞましく変態性に溢れ、倒錯的かつ異常な興奮に血走り、それどころか犯罪そのものでさえあるのかもしれない」と述べる。

『夕刊フジ』(2018年7月9 日)には、「狂気のセクハラ概念に付き合う気など寸分もない私は、今日も女性の尻を追いかけ、口説きに、夜の巷に消えようと思う」などと書いていた。それこそ小川のおぞましく変態性に溢れた性的嗜好など、「見せるものでも聞かせるものでもない」。

 文章は幼稚かつ低劣。書き写すのにも吐き気を覚える。
「LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう。SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ。ふざけるなという奴がいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからである」

 ふざけるな。こういうバカがいるから、まともな保守も同類に見られる。田舎のヤンキーでも、便所にこのレベルの落書きはしないだろう。

 

「満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。彼らの触る権利を社会は保証すべきではないのか。触られる女のショックを思えというのか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく」

 LGBTと痴漢を並べて論じるなど、そもそも話にならない。

 精神保健福祉士の斉藤章佳は、「痴漢とは被害者がいる性暴力であり、その問題と、LGBTをめぐる議論はまったく土俵が違います」と指摘。また、痴漢を繰り返す行為は「脳由来の症状」という小川の主張も事実ではないと退けた。

「痴漢などの性暴力は、加害者が社会の中で学習して引き起こされる行動で、脳の病気ではありません。痴漢加害者は、時と場所や相手、方法を緻密に選んで痴漢行為を行います。泣き寝入りしそうな相手を選んで行動化しているんです」

「時間をかけて正しい治療教育を受けることで、痴漢を繰り返してしまう人から、痴漢をやめ続けることができる人になっていきます」

 小川にも時間をかけた治療が必要なのではないか?

『新潮45』の特集が騒動になった直後、私はあらかじめ《自称文芸評論家の小川榮太郎が「言論の自由があ」とか言い出す可能性があるので、先に言っておく。「公道にクソを垂れ流す自由」なんてないんだよ。クソ野郎が。

。》とツイートしておいた。

 繰り返すが、どのような立場からの発言にせよ、言論の自由は守られるべきである。気に入らない原稿が掲載されたからといって、出版社を批判するのも的外れだ。言論には言論で対峙しなければならない。

 しかし、公衆便所の壁に「おまん◎してえ」とか「チ◎◎舐めろ」と落書きがしてあったら、掃除係の人が拭いて消す。「おまん◎してえ」「チ◎◎舐めろ」というのは言論ではない。落書きは、反論するものではなく、消すものである。

 小川は「私の一文は便所の落書きではありません。一字一句考えぬかれたものです」と反論していたが、一字一句考えぬいて落書きしたらしい。
「窓割れ理論」をご存じだろうか。軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで、凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論である。

アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが考案した。

 ニューヨークでは、この理論に基づき、徹底的に地下鉄の落書きを消した結果、凶悪犯罪が激減した。

 落書きを放置しておくと、社会はどんどん荒んでいくのである。

■旧仮名バカ

 小川榮太郎という名前を初めて聞いたのは5年くらい前のことだ。当時私は産経新聞に連載を持っていたので、『正論』や『WiLL』といった雑誌の人たちとのおつきあいもあった。 こうした界隈の連中からさえ、自己評価が異常に高い変な男ががいるという話が伝わってきた。宗教団体の生長の家や統一協会と関係があるという話は聞いたが、特に興味はなかった。

 しかし、フェイスブックに小川が書いたオバカ文章が流れてきたりするので、注目している人もいたのだろう。

 くだらない床屋政談をブログに書くときでも、私は政局に関わっている暇などなく、本来なら人生で残された時間を使ってブルックナーの研究をしなければならないはずなのだが……みたいなフリをいちいちつけるので、それが一部で笑いものになっていた。

 幼稚な文章を旧仮名遣いと、過去の偉人の名前で飾り立てるので、どうしてもこじらせた中学生が書いたポエムのようなものになる。恥かしくて正視できる文章ではないが、そこからわかるのは自分が大好きということだ。自分のことが好きで好きでたまらない。それで鼻息も荒くなっていく。

 小川の便所の落書きに注目が集まった理由も書いていることの痛々しさ以上に、本人がそれを「高尚な文章」だと思い込んでいるところが痛々しいからだろう。

 小川の旧仮名遣いの文章を現代仮名遣いに直すと、小学生レベルの文章だったという話を数年前に某雑誌の編集者から聞いて大笑いしたが、出版業界でも、小川がいつかなにかをやらかすのではないかと思われていたようだ。

 小川は2017年にフジサンケイグループが主催する「正論新風賞」を三浦瑠麗と一緒に受賞している。その理由は「国語の空虚化や文学の衰退など日本人の核となる精神の喪失が最も深刻な危機と訴える姿勢」が評価されたからだという。

 ちなみにイスラム研究者で、東京大学先端科学技術研究センター准教授の池内恵によると、売れ筋の国際政治学者たちに「『正論新風賞くれる』って言われたらどうします?」と聞くと、皆が嫌な顔をしたそうな。池内は今回の件についても「正論新風賞で勘違いした小物に書かせるからいけない」とツイートしていたが、日本人の核となる精神の喪失はいよいよ深刻だ。

 小川は『小林秀雄の後の二十一章』なる本を出し、自分のブログで「小林秀雄の後を継ぐ評論集といふ意味です。小林秀雄が達成した高みを、思考の手続きと文体において、藝格において、継承、いや凌駕する――それを宣言した本です」と述べている。定価5940円だし、書店が店頭に並べるような本ではない。自費出版なのか、他の目的があるのかは知らないが、そりゃ、小林秀雄全集を出している新潮社の文芸書編集部も怒るわな。

「小物界の大物」という言葉があるが、小川の場合、小物界の自称大物。小物界においてですら、自称でしかない。安倍のヨイショ本をアルバイトで書いたら大金が入ってきたので、のぼせあがってしまい、自分を「伝統保守主義者」「文豪」と思い込むようになった。普段は『正論』『WiLL』『Hanada 』といった特殊な雑誌に妄想を連ねていたので、特に問題になることはなかった。『ムー』の記事に対し、「地底人などいるはずがない」などと批判する奴はいないだろう。

 しかし、今回は『新潮45』という一般誌にひょっこり登場したので、当然問題になったというだけの話だ。それで、最終的にワイドショーでも報道され、お茶の間にもバカがばれた。小川の正体が世の中に伝わったという点においては、今回の件も意味がないとは言い切れない。

(敬称略、後編に続く)

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