江戸の遊里の習慣や制度のなかで、現代人の感覚でもっとも受け入れがたい、あるいは耐え難いのが割床(わりどこ)であろう。
割床とは、いわゆる相部屋である。
部屋を屏風や衝立で仕切って複数の布団を敷き、それぞれで遊女と客の男が性行為をする。
視界こそさえぎられるが、当然ながらふたりの会話はもちろん、女の「ああ、いい、いく」などの淫声は隣に聞こえた。隣どころか、部屋中に筒抜けといってよかろう。
現代でいえば、部屋に二段ベッドをたくさん並べ、そこで客とフーゾク嬢がプレイをするようなものだろうか。もちろん、こんなフーゾク店は客から敬遠されるのは間違いない。
ところが江戸時代、江戸の遊里では割床が当たり前だった。江戸に限らず、各地の宿場の女郎屋や、各地の遊廓でも同様であり、割床は全国的に当たり前だった。
図1は、岡場所のなかでも最高級といわれた深川仲町の光景である。寝床と寝床は屏風で仕切られただけなのがわかろう。
戯作『仕懸文庫』(山東京伝著、寛政3年)に、三人連れの武士の深川仲町の遊びが描かれているが、寝床は八畳の座敷に三組の布団を敷く割床だった。
屏風で仕切られただけの寝床で、武士三人はそれぞれ遊女と情交する。写真を拡大 図1『仕懸文庫』(山東京伝著、寛政3年)
吉原でも、下級遊女である新造は個室をあたえられていないので、客と寝るときは「廻し部屋」と呼ばれる大部屋で割床だった。
図2は、吉原の妓楼の割床の情景である。左の客は痴話喧嘩をしているようだ。喧嘩の遣り取りはもちろん、筒抜けだった。

上級遊女である花魁は個室を持っていたので、客は個室に迎えた。しかし、廻しで複数の客がついているときは、一番大事な客を個室に迎え、ほかの客は廻し部屋に寝かせた。
花魁も廻し部屋で、つまり割床で客と情交していたのである。
図1と図2は戯作の挿絵なので、割床の様子だけしか描いていない。だが、春画には、屏風で仕切っただけの割床で男と遊女が絡み合っているものもある。まさに割床の実態といえよう。

さて、吉原の花魁は廻しで複数の客がいるとき、一番大事な客を自分の個室、そのほかの客は廻し部屋で割床、と先述した。
図3は、花魁の個室の光景。
寝床では、客が花魁が来るのを待っている。寝床のそばにいるのは、名代(みょうだい)の新造。新造は下級遊女である。
名代とは、花魁から、
「わちきが行くまで、客人の○○さんの相手をしていや」
と派遣された者のことで、吉原独特の制度だった。
ただし、「相手」といっても、あくまで「話し相手」であり、けっして「性の相手」はしてはならないのが掟だった。
もし客と情交したのがわかると、その新造は手ひどい折檻を受けた。
しかし、客の男にとっては、この状況はつらい。
十六歳くらいの若い新造とふたりきりで過ごしながら、手を出してはいけないのである。
そう考えると、吉原の名代という制度は、なんとも残酷といおうか、醜悪といおうか。
なお、春画には、客の男が名代の新造に強引にのしかかり、性交しているものがある。男の願望の実現といおうか。
余談だが、図3の右に描かれているのは、行灯に油を継ぎ足す不寝番。
妓楼では、客のいる部屋は一晩中行灯をともし、真っ暗にはしない。そのため、不寝番が夜中、行灯に油を継ぎ足して回ったのである。