吉原の遊女は宝暦期(1751~64)以降、上級遊女の花魁と、下級遊女の新造に大別された。相撲でいえば、幕内と幕下のようなものである。
ただし、幕内でも階級があるように、花魁にも階級があった。
同じ花魁でも、
呼出し昼三昼三
座敷持
部屋持
に分かれており、とくに最上級の呼出し昼三はどの妓楼にもいるわけではなく、特別の存在だった。
呼出し昼三の揚代は一両一分である。露骨な表現をすると、一発の値段が一両一分だった。現代に換算すると、一回のセックスに十万円以上かかったことになろう。
さて、新造は大部屋に雑居だったが、花魁は個室をあたえられていた。
図1は、花魁の部屋に新造と禿が来て、何やら話をしている。
花魁の居室の様子がよくわかるといえよう。
注目すべきは、背後の書箱である。右は『湖月抄』、左には『河海抄』と標題がある。
花魁の教養が並々ならぬのがわかろう。
さらに、壁には琴が立てかけられている。当時、庶民の女が稽古する楽器はもっぱら三味線だった。
琴の稽古をするのは、上級武士や富裕な町人の娘くらいである。吉原の花魁の格式は高かった。
■和歌をたしなむ花魁
図2は、花魁の部屋にほかの花魁たちが集まり、自由時間を過ごしているところである。
ここでも、背後の書箱に注目しよう。
右は『類題和歌集』、左は『古今類句』とある。
『類題和歌集』は、和歌を四季、恋などの内容で分類したもの。
『古今類句』は、下の句の頭文字をいろは順で分類した、和歌索引である。
この部屋の花魁が和歌をたしなんでいることがわかる。
吉原の遊女は禿のころから手習いをさせられていたので、みな読み書きができた。
さらに向学心のある遊女のなかには自分から勉強を続け、古典を読んだり、琴を弾いたり、和歌を詠んだりできる者もいた。
ただし、遊女は吉原の外に出ることは許されていなかったので、それぞれ一流の師匠を妓楼に招き、個人教授してもらった。
師匠にしても、吉原の花魁を弟子に持つのは一種の見栄であったろう。
吉原の花魁は幅広い教養を身につけていたが、これが宿場や岡場所の遊女とのもっとも大きな違いだった。