味方から暗殺されるかも知れないと逐電する義視山名宗全『本朝百将伝』大西与左衛門著より 国立国会図書館蔵
西軍が勢いづく間、東軍は斯波義廉屋敷を攻めてはいるが、結果として2カ月以上かけて屋敷ひとつを攻め落とせなかった。それは総大将の義視に原因がある。
一連の戦いで下京を支配下に収めた西軍は上京に転進して10月3日相国寺に攻めかかる。奪えば奪い返すという激戦の結果、寺は西軍の制圧するところとなった。この戦闘で西軍が得た首は荷車8輌分だったといい、死骸は幾千幾万とも知れずという(『応』)ほどだったから、東西両軍ともこれ以上の戦闘継続は望むべくもなかった。京における軍事衝突はこの日を境に下火となり、乱は地方に及んでいく。
丹後、北伊勢、三河など各地で東西両陣営が戦いを繰り広げたが、幕府にはもうそれを止める権威も実力も無かった。各国とも「一切御下知に応ぜず」というありさまだったのである(『大乗院旧記』)。
翌応仁2年(1468)11月、義視は西軍に迎えられ、義政に対抗する「西の幕府」が出現した。これは富子と宗全の連携を断つための政略だったとも言われるが、その後の形勢は東軍有利で推移していく。
(次回に続く)