【前回までのあらすじ】
 業界最大手の大都新聞社の深井宣光は、特別背任事件をスクープ、報道協会賞を受賞したが、堕落しきった経営陣から“追い出し部屋”ならぬ“座敷牢”に左遷され、飼い殺し状態のまま定年を迎えた。今は嘱託として、日本報道協会傘下の日本ジャーナリズム研究所(ジャナ研)で平凡な日常を送っていた。
そこへ匿名の封書が届いた。ジャーナリズムの危機的な現状に対し、ジャーナリストとしての再起を促す手紙だった。そして同じ封書が、もう一人の首席研究員、吉須晃人にも届いていた。その直後、新聞業界のドン太郎丸嘉一から2人を呼び出す電話が…

 東京駅前、五稜ビル34階の「吉祥(きっしょう)」は、京都にある懐石料理の老舗の東京店である。

 日本ジャーナリズム研究所首席研究員の深井宣光と吉須晃人が店に入ったのは、約束の午後6時の5分前だった。会長の太郎丸嘉一は、まだ着いていなかった。

 案内された部屋は淡いベージュをベースの色調にまとまっていて、シックな雰囲気を醸し出していた。出入口の正面には小さな窓があり、そこから皇居方面が展望できる。深井は窓に駆け寄った。手前に漆黒の皇居の森、その先に新宿の高層ビルの灯りが見えた。

 「日が沈んで10分くらいだけど、もう駄目だ。今日は曇りだったから仕方ないか」
 「なんだい。

深井君、何か、見えると思ったのかね?」
 「見えないのはわかっていましたけど、富士山を見るのが好きなんですよ」
 「そういうことか」

 吉須は窓に向かって右側の奥の席に座った。正面の壁には書の掛け軸が掛かっていた。深井は窓際から戻り、隣の席に着いた。すぐに、仲居がお茶を持ってきた。

 「太郎丸さんがお見えになるまでお飲みになりませんね」
 「それでいいよな、深井君」

 左隣の深井が頷くと、仲居は部屋を出て行った。
 「太郎丸さんの来る前に、聞いておきたいから、さっきの続きを話してくれよ」

 アイリッシュ・パブを出ると、吉須は深井に「国民新聞の歴史を説明してほしい」と頼んだ。新聞業界の歴史を調べているのを知っていたからだ。歩きながら、深井は説明を始めた。

●庶民派・リベラルな論調で一貫している国民新聞

 国民新聞は戦時中の新聞統制で、当時の東京5大紙の大都新聞・東京毎朝時報・伝報新聞・都新聞・萬新報のうち、伝報新聞・都新聞の2社が合併して発足したこと―。

 前身の1社である伝報新聞は、明治5(1872)年に東京・日本橋で創刊され、最古の大都新聞の前身、東都新聞の創刊よりは5カ月遅いこと―。

などの説明が終わったところで「吉祥」に着き、話が途切れていた。

 「戦時中に2社が合併して発足し、2社のうち伝報新聞のことは話しましたよね。

リベラルな論調はもう1社の都新聞の伝統を受け継いでいるんです」

 都新聞は明治17(1884)年に東京・浅草で創刊され、首都圏で部数を伸ばした。庶民の新聞として無産階級を読者ターゲットに軟派情報を売り物にしていたこともあって、論調はどちらかといえば左寄りだった。

 伝報は上位の大都新聞、毎朝新聞(戦後は日々新聞)両社のような全国展開を目指していたこともあり、論調に特徴はなかった。国民新聞は、戦時中はともかく、戦後は「庶民の新聞」という旧「都」の特徴を前面に打ち出し、全国紙としての地位を不動のものにした。

「国民のリベラル路線は、太郎丸さんの思想信条の影響じゃないんだな」
「そうなんですよ。国民の戦前からの社風や体質が大きいんです。その土壌が太郎丸さんのようなジャーナリストを生んだといったほうがいいですね」
「そういえば、国民は『リベラル派』の牙城と言われていたという話を聞いたことがある」
「うちとか吉須さんの日亜は風見鶏で、戦前から左に右に行ったり来たりして、鵺(ぬえ)みたいに正体がはっきりしません。でも、国民新聞は戦前はもちろん、戦後も冷戦構造の間は一貫して論調はリベラルで筋が通っているんです」

「でも、冷戦構造は20年前に終焉してしまったぜ。それに、今は大都も日亜も市場原理主義信奉で筋が通っているぞ」
 「それはそうかもしれないけど、遠からず市場原理主義が日本を駄目にしたとはっきりします。いつ豹変するかわかりませんよ」
 「冗談、冗談。そうむきになるなよ」
 「むきになっていませんよ。ジャーナリズムとして理念があると言えるのは国民だけです。

ソ連崩壊後もリベラル路線を巧みに修正しましたが、今は“公正”を掲げています」

●新聞業界全体が下降線をたどる中、部数増の国民新聞

 「少し持ち上げすぎじゃないか」
 「そうですね。大都や日亜に比べればましだ、という程度です。“公正”という概念はいまひとつはっきりしないし、国民の論調もいつも一貫しているわけじゃないですし…」
 「別に、俺も君の意見に反対なわけじゃない。同じような感じは持っている。だから、部数だってうちや大都が減り続けているのに、国民は増えているらしいじゃないか」
 「国民は700万部に乗せ、うちを抜くのは時間の問題です。ひょっとすると、来年にはトップになっているかもしれないという見方も出ています」

 「その話、俺も聞いている。でも、それは国民の販売力が大きいというじゃないか」
 「確かにそうです。太郎丸さんの後任社長の三杯(守泰=さんばいもりやす)さんは販売部門出身です。大手3社で、社長が販売部門出身だったことはあまり例がないそうです」
 「うち(日亜)も大都も販売部門というだけでゴミみたいに扱われているだろ。まあ、編集部門の優秀な連中が会社を動かすなら、それでもいいが、そうじゃない。編集のゴミみたいな連中が跋扈(ばっこ)している。部数が減って当たり前なんだな」

 「太郎丸さんは相談役に退いて、経営は三杯さんに任せていますが、編集は太郎丸さんがすべて取り仕切っているという話です」

 「国民の編集には、うちやおたくみたいにカスみたいなのは残っていないな。

まあ、相乗効果になっているんだろう。でも、業界全体としてみれば、太郎丸さんもA級戦犯だぞ。いや、文字通りジャーナリストの資格がある人だけに罪は大都の松野弥介や日亜の村尾倫郎より重いぜ」
 「僕もそれはわかっています。だから、今日は文句を言うつもりです」

●新聞業界のドン、登場

 深井がこう言うと、部屋の引き戸が開いた。
 「待たせてしもうて、悪かったのう、悪かったのう」

 太郎丸は、身の丈が170cm近くあり、恰幅もいい。今年80歳になる年齢を考えると、大柄の部類に入る。その太郎丸が仲居の案内で入ってきたのは午後6時10分過ぎだった。

 どかどかとせわしない感じで、窓に向かって右手の席についている吉須と深井に笑顔で声を掛けると、左手の席にどっかり腰を下ろした。そして、腕時計を見ながら続けた。
 「わしが呼んじょるのに、遅れよってすまん。大分、待たせよったかな」
 「僕らも6時少し前ですから、10分かそこいらです。気にされなくて結構です」

 吉須が答えると、太郎丸は安心したようで、案内してきた仲居に向かって声をかけた。


 「そうか。それじゃあ、すぐに始めてもらうぞ。3人とも最初は生ビールじゃ」
 「かしこまりました」
 「おい、酒を勝手に頼んじゃが、お主らの好みを取材しちょるんじゃ。吉須君は何でもOK、深井君はビールしか飲まん、それでええんじゃな?」

 巷間、“新聞業界のドン”と喧伝されている太郎丸だが、豪放磊落なだけではない。意外にきめ細かい心配りをする繊細な側面もある。

 「それで結構です。僕は、いつも最初はビール、そのあとはなんでも飲みますので、今日は会長にお付き合いします。こいつはとにかく、ビールしか飲みませんから」
 太郎丸の問いかけに、吉須がすばやく反応し、脇の深井を見て笑った。

 「僕だって、焼酎やウィスキーの水割りは飲みますよ。でも、日本酒は駄目なんです…」
 「深井君、わかっちょる。お主はビールを飲めばええぞ。今日は肌寒いけん、わしは熱燗を飲むぞ。

吉須君、付きおうてくれよるな」
 「わかりました。熱燗、会長に付き合いますよ」

 引き戸が開き、2人の仲居が入ってきた。生ビールと先付けを持ってきた。
 「ここの懐石料理はうまいんじゃぞ。わしには分量もちょうどええが、お主らのような若もんには足りんかもしれんがな。内装もシックでええじゃろ。京都の店の雰囲気をそのまま味わえるようにつくりよったらしいんじゃ」

 2人の仲居が代わるがわる、テーブルに生ビールのグラスと先付けを置いている間、太郎丸がうれしそうに説明した。そして、2人が部屋を出ようとすると、声をかけた。
 「次の料理の時に熱燗を2本、生ビールも1本頼む。御猪口は一応、3つじゃな」
 「かしこまりました」

 仲居が部屋を出ると、太郎丸が生ビールのグラスを取り、2人に目で促した。
 「わしの都合で呼び立てよってすまんのう。うまい料理で飲んでくれや。じゃあ…」

 太郎丸に合わせて2人もグラスを上げた。ビールを飲んでグラスを置くと、吉須が切り出した。
 「会長。なんの話があるんですか。そろそろ話してください」

 太郎丸は吉須の問いにすぐには答えず、先付けに箸をつけ、口に運んだ。
 「やっぱりうまいわな。お主らも早よう手をつけろや」

 勧めに従い、2人が箸を取ると、太郎丸は続けた。
 「わしはな、お主らの力を借りたいんじゃ。うちの編集局の連中に聞くと、わしの手伝いを頼みよるなら、君たち2人がええと言うんじゃな」

 2人は怪訝そうに顔を見合わせて、箸を止めた。
 「それはどういうことですか。僕らは“座敷牢”の身です。会長の役に立てることなんてないですよ。会長はそんなこと、わかっているでしょう。ねえ、吉須さん」

 黙って笑顔を見せるだけだった深井が突然、吉須に同意を求めた。吉須のほうは「そんなにつっかかるな」という顔つきで、含み笑いを浮かべ、ビールグラスに手を伸ばした。
(文=大塚将司/作家・経済評論家)

【ご参考:第1部のあらすじ】業界第1位の大都新聞社は、ネット化を推進したことがあだとなり、紙媒体の発行部数が激減し、部数トップの座から滑り落ちかねない状況に陥った。そこで同社社長の松野弥介は、日頃から何かと世話をしている業界第3位の日亜新聞社社長・村尾倫郎に合併を持ちかけ、基本合意した。二人は両社の取締役編集局長、北川常夫(大都)、小山成雄(日亜)に詳細を詰めさせ、発表する段取りを決めた。1年後には断トツの部数トップの巨大新聞社が誕生するのは間違いないところになったわけだが、唯一の気がかり材料は“業界のドン”、太郎丸嘉一が君臨する業界第2位の国民新聞社の反撃だった。合併を目論む大都、日亜両社はジャーナリズムとは無縁な、堕落しきった連中が経営も編集も牛耳っており、御多分に洩れず、松野、村尾、北川、小山の4人ともスキャンダルを抱え、脛に傷持つ身だった。その秘密に一抹の不安があった。

※本文はフィクションです。実在する人物名、社名とは一切関係ありません。

※次回は、来週11月15日(金)掲載予定です。

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