ヘイトスピーチ・デモの現場を取材すると、隣国の民族や国民に対して「死ね」「皆殺し」などと叫ぶ団体が公権力のお墨付きを得て、警察に守られつつ白昼堂々とデモを打っているようにみえる。そして、隣国に対して嘲弄的な大見出しを付けた新聞や雑誌がキオスクの最前列に置かれ、それらを一般の人々が電車の中で娯楽として読んでいる光景には強い違和感を覚えるし、数年後にはこの街でオリンピックが開かれると考えると困惑してしまう。法の力を使ってでも、この事態を鎮静化させ、正常な状態を取り戻してほしいと思ってしまうのは筆者だけではないだろう。
だが、ヘイトスピーチ規制は、そう簡単に実現できるようなたやすいテーマではない。それは「表現の自由」の観点から見た場合、単に今ある制度の強化・改正ではなく、これまで日本にはなかった「まったく新しい規制」を設けることだからである。
8月28日に開かれた自民党の「ヘイトスピーチ対策プロジェクトチーム」で、高市早苗政調会長(当時)が、国会周辺のデモ・街宣とヘイトスピーチを混同しているようにも受け止められる発言を行い批判を浴びたが、為政者が表現の自由に対する「形式規制」であるデモ規制と、基本的に「内容規制」であるヘイトスピーチ規制の区別すらわきまえていないような「素朴すぎる」状態では、先が思いやられるというのが正直な感想である。●曖昧な規制対象と線引き
実際、本気でヘイトスピーチを規制しようとすると、そもそも規制すべき「ヘイト」とは何かですら、実は曖昧であることがわかる。「朝鮮人は半島に帰れ」というのがヘイトだとして、「アメリカ軍は沖縄から出ていけ」というのはヘイトではないのか。両者はどのように違うのか、両者の間にどのような線引きを行うのか。また、「殺せ」「皆殺し」などの過激な表現だけを法規制するとした場合、そのような言葉を慎重かつ狡猾に回避したデモが「公権力のお墨付きを得た」と称して、かえって公然と行われることにならないか。
あるいは、極端な排外主義者が街の片隅でデモを行うことより、大手の出版社や新聞社が毎日のように大量の「嫌韓」「嫌中」情報を発信し、それを一般の人々が溜飲を下げて読んでいることのほうにむしろ問題があるのではないか、等々の論点をクリアして、われわれは規制対象とすべき表現を明確に画定することができるだろうか。
それだけではない。
このような政治家によって主導されるヘイト規制法がどのような内容のものになり、どのように運用されるのか。不安が期待を大きく上回ってしまう。
「われわれ国民がこのレベルなのだから、政府もこのレベル」といってしまえばそれまでだが、もちろん話はそれでは済まない。国際社会は、われわれが考える以上に、この問題にはナーバスなのである。国内で気持ちよく隣国叩きをやっている間に、国際社会では孤立していた、といったことを「再び」繰り返してはならない。日中戦争、そして太平洋戦争への突入する入口となった、日本の国際聯盟脱退(1933年)の絵柄が目に浮かぶ。
まずは、政策の指針となる「反ヘイト基本法」を制定し、他民族・外国人の生活を脅かす行為に政府が手を貸さない、つまり公権力がヘイトスピーチ・デモ(集会)を許可できない状態を迅速に作ること。そして、メディアに対しても、一定期間で改善が見られないならば流通・販売の方式等の面で自重を求めること。まずこれらを行ったうえで、刑罰によって規制すべきヘイトスピーチの内容・形式を画定する作業をあせらず、慎重に進めることが、現在の国の現状を鑑みると比較的安全で賢明な対処法ではないだろうか。
(文=大石泰彦/青山学院大学法学部教授)