京都アニメーションで男がガソリンをまき、火を放って、アニメ制作に携わる人々の命を奪った事件。これを書いている現在、犠牲者は34人に上り、さらに重傷を負って危機的な状態にいる被害者もいる、と報じられている。

これ以上、1人の命も失われず、すべての被害者が回復されるよう祈りたい。

 一方、容疑者も全身に火傷を負い、重篤な症状に陥ったことから、事件後に運ばれた京都市内の病院から、より高度な医療が受けられる大阪市内の病院へドクターヘリで移送された。この容疑者も命を取り留め、事件について語れる状態になるよう心から望む。

「犯人は生け捕りにせよ」


 この容疑者搬送のニュースが流れると、ネット上ではさまざまなコメントが飛び交った。

「ドクターヘリはやりすぎ」
「どれだけ税金の無駄遣いをすれば気が済むのか」
「この容疑者に高度な医療は納得できない」
「犯罪者にそんなにする必要がある?」

 取り調べのためには治療の必要があると頭ではわかっていても、やはり釈然としない、という人も少なくない。

 そんなコメントを見ていて、武装した連合赤軍のメンバーが人質をとって立て籠もった「あさま山荘事件」で、後藤田正晴・警察庁長官(当時)が現場の警察部隊に出した指示を思い出した。その指示を託された佐々淳行氏(当時の肩書は警察庁警備局付監察官)が、著書『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文藝春秋)の中で詳細を明かしている。

 指示は6項目にわたった。そのトップ「人質は必ず救出せよ。これが本警備の最高目的である」に次いで、2番目にこう書かれていた。

「犯人は全員生け捕りにせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾を引く。

国が必ず公正な裁判により処罰するから殺すな」

 それを徹底するため、高性能ライフルなどの火器類は、現場判断で使わせず、警察庁許可事項とした。「警察官に犠牲者を出さないよう慎重に」は6項目だった。

 このオペレーションは、警察官2人が死亡し26人が負傷するという大きな犠牲を出したが、人質は無事救出し、犯人全員を逮捕した。うち、1人はその後の赤軍派ハイジャック事件により超法規的に釈放され、今も国際手配されているが、ほかは裁判で死刑、無期懲役など厳しい判決を受けた。

 最近は、警察官の発砲で被疑者が死亡するケースも時々起きているが、欧米に比べれば、日本の警察は極力被疑者を「生け捕り」にして、裁判にかけようと努める。私は、この方向性は正しいと思う。

 地下鉄・松本両サリン事件などで多くの死傷者を出したオウム真理教の捜査でも、警察は教祖以下、事件に係わった全員の「生け捕り」を目指した。捜索を開始した時点では、どれだけの化学兵器が残っているかわからない状況だったが、警察は銃を一発も発砲することなく、捜査を進めた。

 ただ、強制捜査の最中に、教団の最高幹部が暴漢に襲われて殺害される事件が発生。そのために、事件の全体像の解明に手間取ったのは残念だった。それでも、時間はかかったものの、その最高幹部を除いて、すべての被疑者の身柄を確保し、裁判にかけたのは、法治国家として誇ってよい歴史だと思う。

 過激派やオウム事件など組織犯罪ではなく、単独犯による犯行の場合は、なおさら被疑者を死なせず、生きて裁判にかける必要性は高い。

そうしなければ、なぜこのような事件を引き起こしたのかがわからずじまいになってしまうからだ。

“生きて裁判にかける”意味


 6月に川崎市で、男が私立カリタス小学校の児童らに刃物で襲いかかり、2人が死亡、17人がけがをした事件では、男は犯行直後に自殺した。男がひきこもり状態で、同居の親族から自立をうながす手紙を渡されて激高したことなどはわかったが、当人に話を聞けないために、事件の動機やカリタス小を狙った理由などはわからずじまいだ。

 生きて身柄を確保したとしても、被疑者・被告人には黙秘権があり、真実を語るとは限らない。それでも、生きていれば問い質す機会はある。すぐには語らなくても、いずれ口を開く可能性もある。犯人が死亡し、そういう機会すらなく、恨んだり憤りをぶつける相手もいないというのは、大事な家族を失った遺族にしてみれば、たまらないのではないか。

 ドクターヘリを使って大病院に搬送した今回の対応は、こんなひどい事件で被疑者を絶対やすやすと死なせない、必ずや生きて裁判にかけるという当局の決意の表れと見ることができる。

 また、ネットでは、事件への憤りから、早々と(まだ決まってもいない)弁護人に注文を出す声も聞こえてくる。

「弁護人が『精神疾患で心神喪失』とか言い出さないように願う」
「そんな奴に人権も何もない、弁護するとこなんて何もない」
「これだけの大罪を働いておきながら、精神疾患を理由に無罪になるという事は、絶対にあってはなならない。弁護人につく者は、人道への反逆者と見るべき」
「死刑反対論者の弁護団が付いて無期懲役にでもなったら悲惨」

 ネットメディアでは、「容疑者が罪を認めるのであれば、弁護人は余計な弁護活動をするべきではない」などという独自の見解を語る弁護士まで現れた。
 改めて言うまでもなく、どんな大罪を犯した者でも、弁護人をつけられる権利、裁判では十分な証人調べを行える権利は、憲法が保障している。

<刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する>
<刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する>

 こうしたルールは、いわば文明国の証しのようなもの。それに反して、弁護人抜きの裁判を求めたり、弁護人を攻撃したりするのはやめたほうがいい。この男のために、日本の憲法を破壊されたのではたまらない。

 それに、患者がどんな悪人であっても、医師は命を救おうと全力を尽くすように、弁護士もひとたび弁護人に選任されれば、被疑者・被告人のために最善を尽くすのが使命だ。

「真相は闇の中」と言わせないために


 オウム事件でも、多くは国選弁護人だったが、弁護士会は死刑が予想される被告人には、特に優秀な、刑事事件に精通した弁護士を手配した。家族から「オウム事件だけはやめてほしい」と言われ、開廷前のマスメディアによる法廷内撮影の時には席を外して映らないようにしている弁護士もいたし、顧問先が離れた、という話も聞いたこともある。それでも、多くの弁護士は誠実に弁護活動を行っていたように思う。

 ある被告人は、法廷で弁護人を罵倒したり、面会を拒んだりして手こずらせていたが、それでも弁護人たちは彼のために懸命に弁護を行っていた。

 教祖の場合は、関与した事件が多かったことから、特別に12人もの国選弁護人がつけられ、その弁護費用は4億5200万円に上った。その裁判は、一審の初公判から判決まで7年10カ月をかけ、257回の公判が開かれた。呼んだ証人は延べ522人に上る。

証人尋問に要した1258時間のうち、1052時間が弁護側の尋問だった。検察側証人に対しては実に詳細な反対尋問が行われ、かつての弟子たちが事件の経緯や教祖の関わりについて詳細に語った。こうした裁判を開くには、弁護人の費用のほかにも警備など多額な経費がかかっている。

 これを「税金の無駄遣い」と批判する人もいたが、それは違う。事案の真相を少しでも解明に近づけるためのものであり、日本が法治国家としての面目を保つための必要経費だ。

 国家は、強大な刑罰権を持ち、事件によっては人の命を絶つ死刑すら行う。犯人を間違う冤罪があってはならないのはもちろん、真犯人であったとしても、適正な範囲を超えて、過重な罰が加えられてはならない。そのために弁護人が考えられる限りの論点について指摘を行い、それを踏まえて審理を行った結果だからこそ、国家の刑罰権行使は正当なものとみなされる。

 そうして多くの人と時間と経費をかけて裁判を行っても、それを見てもいない人たちが、「真相は闇の中」などと言い出すことがある。オウム事件もそうだし、秋葉原の無差別殺傷事件などでも、メディアはしばしば「今なお闇」といった表現を使う。大量無差別殺人者をヒーロー扱いする人もいる。根拠のない陰謀論が飛び交ったり、「適切な裁判が開かれずに、死刑になった」などといった非難をする人もいる。

 弁護人が被告人のために考えられるあらゆる論点について主張し、裁判で吟味がなされていればこそ、そうした風説や批判を退けることができる。

 こういう注目をされる事件だからこそなおのこと、時間はかかっても、後から問題を指摘されないような司法手続きをしてもらいたい。

 そのためには、まずは容疑者を生かすことだが、治療が奏功したとしても彼が法廷に出てくるまでには、相当の時間を要するだろう。それまでの間は、被害者・遺族や被害企業の支援、あるいはこうした事件の再発防止のために、たとえば携行缶でのガソリン購入の規制を厳しくするなどの対策を考えることに、気持ちを向けたいと思う。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)

●江川紹子(えがわ・しょうこ)
東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か – 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。
江川紹子ジャーナル www.egawashoko.com、twitter:amneris84、Facebook:shokoeg

編集部おすすめ