事件史上に残る凄惨な結果となった京都アニメーションの放火殺人事件。だが35人の犠牲者の氏名のうち、2日になって初めて公表されたのはまだ10人だ。
発表時の会見で京都府警の西山亮二捜査1課長は、「身元特定に時間を要したことに加え、凄惨な事件で関係者の精神的ショックが極めて大きい。ご遺族ら関係者が死を受け入れるまでに時間がかかった」と説明する。さらに遺族に「(匿名だと)臆測が流れたり、誤った事実が流れ、亡くなった方の名誉が傷ついたりする」と説明し、葬儀を終え遺族の了承を得られたのが10人で、残る25人については実名公表への理解を求めていく意向を示したことを明かした。
各新聞は、公表された時点で実名報道への「お断り」を入れている。たとえば朝日新聞は3日付朝刊一面で「事件報道に際して実名で報じることを原則としています。犠牲者の方々のプライバシーに配慮しながらも、お一人お一人の尊い命が奪われた重い現実を共有するためには、実名による報道が必要だと考えています。それが、社会のありようを考えるきっかけになると思っています」と断った。
これまでメディアは一部の遺族への取材を行い、被害者の実名を報じていた。早くからメディアの取材に応じていたのは、長女の幸恵さん(41)を奪われた兵庫県加古川市の津田伸一さん(69)だった。筆者も7月に自宅にお邪魔したが、「娘ががんばっていたということを少しでも知っていただければ」と話していた。4日、19歳の娘とともに伏見区の第1スタジオ近くの献花台に来ていた女性は、「もし、この娘があんなことになったら、やっぱり娘のことを世間に知ってもらいたい」と話し、娘さんもうなずいていた。
関西のテレビ各局は協議して、手分けして10人の被害者の遺族を代表取材することを検討しているという。新聞と違いテレビの取材は仰々しい。各局が多人数で自宅に上がり込み、同じ局でも番組ごとに別のクルーが来るため、遺族は疲れ果ててしまう。代表取材は皇室取材が典型だが、筆者の経験では、北朝鮮による拉致被害者の蓮池薫さんが帰国し初めて実家に戻る際、メディアが殺到するため代表取材となり家に入れなかったのを思い出す。
過去にも議論にさて、被害者を匿名にすることについては、京アニ側が県警に強く要望している。だが、本当にすべて遺族の希望なのか、会社の意向なのか、第三者には検証できない。もちろん多くの遺族がそれを望んでいるからだろうが、こういう先例は利用されやすい。犠牲者が属していた組織が遺族に対して「匿名にします」としてしまうこともあり得る。また、当局によって都合の悪い死亡事案があった場合など、会社などに匿名を求めることもできる。
実名・匿名問題で思い出すのは、2013年1月に起きたプラントメーカー日揮の日本人社員10人が死亡したアルジェリアでのテロ事件だ。
19人が殺された3年前のやまゆり園(神奈川県)の殺傷事件の犠牲者は、いまだ匿名のままだ。遺族に「名前を出されれば差別を受ける」と言われれば、警察も発表はできない。一方で、被害者が匿名だと、世間の人々が思いを馳せにくくなるという声もある。
事件ではないが、2005年4月に運転士を含み107人が死亡したJR福知山線の大事故では、遺族の匿名希望が強かった4人を例外にすべて実名が発表された。事故直後に取材に応じた遺族はごく一部だったが、現在も変わらない。それでも娘を奪われ「4・25ネットワーク」を立ち上げた藤崎光子さんに賛同する遺族らが、JRの責任追及や事故再発防止などの行動を行っており、毎年4月25日前後に大きく報じられる。仮に被害者全員が匿名なら、事故に関する報道はなくなっていたかもしれない。
1996年に長男を殺された大阪市の武るり子さん(少年犯罪被害当事者の会代表)は、「近年はインターネットの普及もあり、実名報道のマイナス面ばかりが強調されてしまっている。しかし、遺族も実名報道を通じて、同じ境遇にある他の遺族たちとつながることができる。『報道されない被害』があることも知ってほしい」(産経新聞より)と指摘する。
インターネット上などでは、遺族取材をするメディアが盛んに批判されている。確かに以前は、葬儀などでメディアが遺族を取り囲み「今のお気持ちは」などとマイクを突き付ける姿が批判されたが、最近は筆者が現場で見る限り、そういう取材は滅多に見かけない。
加害者は実名報道さて、京アニ事件では京都府警は「事件の重大性に考慮して」として、重体で治療中の青葉真司容疑者(41)を逮捕される前から実名発表した。素性、生い立ち、直近の行動などが徹底的に報じられたが、「重大性」をどこで線引きするのか。5人死亡なら重大で容疑者は逮捕前に実名発表、3人なら匿名なのか。あるいは、被害者が創造的なクリエーターたちではなく、「日本のアニメ文化の喪失」とならなければ、大勢が死亡しても重大性の度合いが落ちるのか。まったく判然としない。被害者の匿名がなし崩し的に進めば、海外で自衛隊員が落命したとき、名を伏せることもできてしまう。
痛ましい事件を機に被害者、加害者の実名・匿名が恣意的になってゆくことを危惧する。
(写真・文=粟野仁雄/ジャーナリスト)