高校卒業直前の藤井聡太二冠(18/棋聖・王位)が、またしても伝説をつくった。
2月11日に有楽町ホールで行われた朝日杯将棋オープン。
三浦との決勝は鋭い攻めに追いつめられた藤井の玉が三浦陣に入玉し、三浦玉と1マス挟んでにらみ合う大熱戦だったが、三浦の飛車の横効きを止める4四銀の好手から藤井が逆転勝ちした。
だが、それよりも驚いたのは渡辺明三冠(名人・棋王・王将)との準決勝だ。渡辺が優勢のまま双方、40分の持ち時間を使い果たしての1分将棋に入った。なんと藤井が8枚もの歩を持ち駒にする珍しい場面もあった。藤井の玉は守り駒もないまま8三に浮いた形でつり出され、渡辺の香車で王手された。この時点で中継していたAbemaTVのAI(人工知能)の表示した藤井の勝率は1パーセントとなっていた。
藤井は歩の「中合い」(離れた位置からの王手に対し、玉から1マス以上離れた位置で守る合い駒)で守ったが、解説していた広瀬章人八段は「(藤井が)負けたことは当然わかっているので、それ以外の変化に賭けたんでしょうね」と話していた。
ところが、123手目に渡辺が8四歩と王手をかけた途端、数値が突然、「藤井96%、渡辺4%」とひっくり返ったのだ。アシスタントの女流棋士が「あれっ、AIが」と声を出した。広瀬は冷静に解説していたが「将棋って怖いですね」と漏らした。藤井は広瀬の予想通り7四に玉を逃がし、渡辺の攻めが切れて藤井が逆襲する。138手目の7七角の王手をみた渡辺が頭を下げて投了した。渡辺は途中から観念したかのように天井を見上げていた。渡辺が香車で「中合い」の歩を取って王手していれば勝ちだった。
筆者は記者たちとAbemaTVなどを見ながら待機していたが、同時に行われていた三浦九段vs.西田拓也四段戦で一足先に三浦が勝ったために会見のため並んでいた途中で、藤井の逆転勝利の報が飛び込んできた。
優勝のインタビューで藤井は「準決勝・決勝とも苦しい場面の長い将棋でしたが、開き直ったのがよかった。秒読みのパフォーマンスに課題があったので改善していきたい」などと話した。ちょうど東京五輪・パラリンピック競技大会組織委員会の森喜朗会長の発言が大騒動になっていた。藤井が故郷の愛知県瀬戸市を走る聖火ランナーを辞退したと報道され、質問されたが「受けた時と自分の状況が変わってきたので。
インタビューで筆者は「藤井ファンの妻もAbemaTVの数字を見て諦めて途中で消してしまい、大変後悔しています。大逆転といえば、昨年の王位戦で木村(一基)王位から札幌の第二局で逆転した勝負を思い出しますが、あの時よりピンチと思いましたか?」と質問した。藤井は「3二金(筆者注:聴き取りにくく不正確)と打たれたあたりからピンチかなと」と話し、「苦しい状況でも建て直さなくてはならないので」などと語ってくれたが、王位戦との比較はなかった。
「渡辺名人のどの手で逆転できると思いましたか?」と尋ねると「7四玉と出た局面でよくなったのかな」と答えた。だが「そうですね、うーん」「そうですね、うーん」を繰り返し、答えに窮する様子だった。そもそも三浦との激戦を終えた直後に、準決勝や1年も前の将棋のことを尋ねたのが間違いだった。藤井はいつも冷静だが、決勝の勝利に内心は興奮していたかもしれない。まだ高校生でもある。
一方、勝っても負けても朗々としたバリトンの美声で雄弁に語ってくれる渡辺は、「優勢になった後に決め手がつかず、間違えてしまった」などと話したが、この日は言葉少な。
渡辺は一昨年、この棋戦の決勝で藤井に敗れていたが、なんといっても昨年夏、大阪で棋聖のタイトルを奪われ、藤井の初タイトルフィーバーの引き立て役になってしまった悔しさがある。今回、渡辺が終盤、藤井玉の詰み筋を見落として勝機を逃したようだが、「あそこまで優勢になって、負けるとは」といった恐怖感を覚えた表情にも見えた。
決勝で初優勝を目指した三浦は「相手が藤井さんなら仕方がない」と白旗を挙げながらも「でも、ここまでくれば勝ちたかった」と悔しさを素直に表していた。
「棋力ゼロ」の筆者はどうしてもAIの勝ち予想数値に頼ってしまうが、「当てにならない」をこれほど痛感したことはなかった。
十代は初、最年少九段の期待もさて、これより2日前の2月9日、東京・千駄ヶ谷の将棋会館で名人戦の順位戦B2組のリーグ戦で、藤井は9戦目で窪田義行七段(48)と対局した。終盤、窪田陣営は金銀などベタ打ちの守り駒で自分の玉が逃げられなくなり、なんだか素人将棋のような盤面に見えた。午後10時頃、藤井の厳しい攻めに、持ち時間を1時間近く残していた窪田が投了した。
これで藤井聡太は9戦全勝。いわゆる「一期抜け」で4月の来期からB1組に昇級することが決まった。B2に在籍している師匠の杉本昌隆八段や谷川浩司九段(永世名人資格者)も抜いてしまったのだ。
藤井は現在八段。
(写真・文=粟野仁雄/ジャーナリスト)
●粟野仁雄/ジャーナリスト
1956年生まれ。兵庫県西宮市出身。大阪大学文学部西洋史学科卒業。ミノルタカメラ(現コニカミノルタ)を経て、82年から2001年まで共同通信社記者。翌年からフリーランスとなる。社会問題を中心に週刊誌、月刊誌などに執筆。『サハリンに残されて−領土交渉の谷間に棄てられた残留日本人』『瓦礫の中の群像−阪神大震災 故郷を駆けた記者と被災者の声』『ナホトカ号重油事故−福井県三国の人々とボランティア』『あの日、東海村でなにが起こったか』『そして、遺されたもの−哀悼 尼崎脱線事故』『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』『アスベスト禍−国家的不作為のツケ』『「この人。