当時の発言との明らかな矛盾が発見された――。
元チェッカーズの鶴久政治がテレビ番組『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(テレビ朝日系)に出演し、チェッカーズ時代の“秘話”を語った。
しかし、7人しかいないバンドメンバーのなかで、作曲家としても貢献していた鶴久が解散を知らされないことなどあり得るのだろうか。音楽関係者は語る。
「チェッカーズは、見掛けは藤井フミヤのワンマングループのように見られがちでしたが、ギャラはきっちりメンバー間で7等分だったし、何かあれば必ず皆で話し合いをして決めていた。解散のときだってそうです。音楽業界やファンのなかで、解散の経緯は有名な話。それなのに、“決定事項として教えられた”と言い出したことは、開いた口が塞がりませんでしたよ」
実は以前、鶴久自身がこう述べている。
「91年10月くらいだったかな、メンバーのひとりが『やめたい』と事務所に言いにいって、7人で話し合いをする機会があったんだけど、そのメンバーは、今度は『解散したい』って言葉に置き換えたんです。(中略)その後、残りの6人が3対3に分かれて、『解散する』『いや、しない』という議論が続いたけど、結局事務所の人が間に入って『ひとりが抜けても、続けていけるのか?』と。それで、解散を認めざるをえなくなったんです」(「サイゾー」<サイゾー/2004年12月号>より)
この記事を読む限り、解散の議題が上がった場面に、鶴久を含むメンバー全員が同席している。少なくとも、「解散を決定事項として教えられた」というのは無理がある。
●バンド時代に熱心なソロ活動
また、鶴久は『しくじり先生』で自分のことを“空気のような存在だった”と言い、出しゃばらず、いつも控えめだったと話していた。だが、これにも疑問符が付けられている。
「たしかにチェッカーズのなかでは大人しくしていたのかもしれません。でも、鶴久さんと高杢さんがソロ活動を活発にしていったことで、メンバー間のレコーディングやリハーサルの時間が合わなくなった。そのため、徐々にメンバーの間に溝ができていったのは有名な話です」(同)
鶴久のチェッカーズ時代のソロ活動を振り返ると、1989年に3枚、90年には4枚ものシングルを発売。バンドがありながら、驚異的なペースで新曲を作り出している。少なくとも、“控えめ”とはいいがたい。
鶴久は最後に、「再結成のきっかけとなれるのは唯一、チェッカーズの空気である僕だけ」と話し、「まずは1回集まって飲みたい」という宣言まで飛び出した。
「バラエティ番組なので、ちょっと盛って話したり、いちばん有名な曲と思われる『涙のリクエスト』の替え歌を歌ったりするのは仕方ない部分もあると思います。しかし、鶴久さんが今回のような明らかに事実と違う話をすれば、メンバーの気持ちは鶴久さんから離れ、鶴久さんが最も望むチェッカーズ再結成の道は、ますます閉ざされるでしょう」(同)
チェッカーズに欠かせないメロディーメーカーだった鶴久。ファンの思い出だけは壊さないでほしい。
(文=編集部)