2015年は『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(ウォルト・ディズニー・ジャパン)や、『ジュラシック・ワールド』(東宝東和)など、人気作続編の公開が目白押しだった洋画業界。
国内での映画興行収入は、14年は洋画も邦画も含めると2070億円に上ったが、洋画のみでは863億円(一般社団法人日本映画製作者連盟調べ)と、邦画に押され気味だった。
そんな洋画の永遠の議論ともいえるのが、「字幕で観るか、吹き替えで観るか」ということ。吹き替えのほうが字幕よりも「情報量が多いのでストレスなく観られる」という意見もあるが、「洋画の雰囲気をそのまま味わうならば字幕」という意見も根強い。
そんな洋画字幕翻訳の第一人者といえば、やはり戸田奈津子氏だろう。
1970年に字幕翻訳のキャリアをスタートさせ、フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(日本ヘラルド映画)で地位を確立。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(ユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ<UIP>)や『E.T.』(UIP)、『レイダース/失われたアーク(聖櫃)』(パラマウント映画/UIP)と、80年代の洋画黄金期に生まれた作品の字幕を担当し、90年代以降も『ターミネーター2』(東宝東和)や『ジュラシック・パーク』(ユニバーサル/UIP)といった超ヒット作を手がけている。また字幕翻訳に限らず、トム・クルーズなどのハリウッドスターが来日した際には同時通訳も担当しており、その姿を見たことのある人も多いはずだ。
名実共に映画に関する翻訳の大御所といっても差し支えなく、「字幕の女王」という二つ名を欲しいままにしている。
しかし、2000年代以降、そんな彼女にもうひとつの呼び名がついた。それこそが「誤訳の女王」である。
『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』(20世紀フォックス)では、「A Volunteer」をそのまま「ボランティア軍」と訳したが、観客から「義勇軍でいいだろ」と指摘を受け、最近では昨年公開された『ジュラシック・ワールド』でも誤訳騒ぎを起こしている。
だが一方で、戸田氏の字幕翻訳は「高レベルな意訳」だと評するファンも多い。
そこで、辛口な批評で人気のウェブサイト『超映画批評』主催の前田有一氏に、戸田氏の字幕翻訳に関する評価を伺った。
●「大御所ゆえの賛否両論」と「業界の体質」
--戸田氏の翻訳に批判の声が寄せられることが多いことについて、どう思われますか?
前田有一氏(以下、前田) 戸田さんの字幕翻訳は意訳が多いのが特徴で、それが作品としてよかったり悪かったりと振れ幅が大きいのです。ですから、どんな作品も直訳にする翻訳家と比較すると賛否両論になりやすいのだと思います。
大御所ゆえに、熱狂的なファンを持つ『ロード・オブ・ザ・リング』(日本ヘラルド映画/松竹)などの名作を翻訳される機会が多く、そこで誤訳をしてしまったことで強烈なアンチができてしまったという側面はあるでしょう。
また2000年代以降はインターネットが発達したことで、些細なミスも全部掘り返されて過剰にピックアップされているという印象も受けます。気の毒なところはあります。
--辛口で知られる前田さんとしては意外なコメントです。
前田 まず前提として、戸田さんは字幕翻訳家として80年代の洋画黄金期の翻訳を一手に担っていた多大な功績のある方であることは間違いありません。80年代の字幕は必ず最後に「戸田奈津子」と出ており、「この人じゃないとダメ」という空気すらありました。
その空気が今でも残っているため、配給会社からのオファーが続いているのでしょう。彼女も、来るものは全部引き受けるような姿勢で、得意ではないSFやファンタジー、ミリタリーといった分野の翻訳で、ついにほころびがバレる時代になってしまったという感じでしょう。
『ロード・オブ・ザ・リング』で誤訳騒ぎが起こった後からは、配給会社も原作の翻訳者のチェックを入れて、キャラ名も原作と統一を図ったり、戦争映画ならば軍事評論家の監修が入るようになりました。
ほかの字幕翻訳者からは、戸田さんの誤訳騒動以降「より慎重に翻訳するようになった」という声も上がっていますし、戦争映画の『ブラックホーク・ダウン』(東宝東和)を翻訳された松浦美奈さんなど、直訳系の翻訳者の評価が上がっていることも事実です。
映画業界は「話題になればいい」と思って、洋画の原題からかけ離れたタイトルをつけるのが当たり前でしたし、とにかく「興行収入が上がればいい」と思っているようないい加減な業界でしたから(苦笑)。
--映画業界のいい加減な体質も、戸田さんの誤訳騒動を広げた要因だといえるのでしょうか。
前田 先ほども申し上げた通り、SFや戦争映画など、相性の悪いジャンルがあることは間違いありません。また、そういうところで知らないなら知らないなりにきちんと辞書を引いたり確認すればよいのに、流れで翻訳している点は見過ごせません。お年なので面倒くさがっているのか、あり得ないような間違いの意訳も過去にありました。
また、テレビでの同時通訳で、「brown rice」を「玄米」と訳すべきところ、「茶色いお米」と訳すなど、単なる語彙不足といった部分も感じられます。
しかし、やはり『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『ターミネーター2』などの映画をあれだけ日本人が楽しめたのは戸田さんのおかげというのも事実でしょう。
●「あふれるサービス精神」こそ、戸田字幕の魅力
--では、戸田さんの字幕翻訳の腕前は優れているといえるのでしょうか。
前田 これも前述したように、「作品によりけり」です。ほかの直訳系の字幕翻訳者が80点のアベレージを叩き出しているのに対して、戸田さんの翻訳したものは20点から100点のものまで振り幅が広いといった印象です。
戸田さんの翻訳は映画の魅力を必死に伝えようという気持ちが強く、ある種のサービス精神が豊富なのだと思います。このサービス精神の受け取り方は人それぞれで、「余計なお世話」と思う方もいれば「最高だ」と受け取る方もいるでしょう。
人間関係や感情を描く作品の場合は、それが功を奏することが多いですね。たとえば、クリント・イーストウッドが監督した『父親たちの星条旗』(ワーナー・ブラザース)では、戸田さんが字幕に人物の名前などのキャプション(説明文)をバンバン追加しています。この作品は登場人物が非常に多い上に無名の俳優ばかりなので、観客が混乱するのを防いでいるわけです。
また01年の米同時多発テロをテーマにした『ユナイテッド93』(UIP)は場面転換が多く、誰をどこでカメラが追っているのかわかりにくいのですが、戸田さんは「コントロールルーム」「同時刻 ビルの中」といったキャプションをすごく細かく追加しています。これも日本の観客にはすごくありがたいはずです。
--戸田さんの独特な言い回しも批判されがちです。
前田 戸田さんの言い回しも、インターネット上では“なっち語”などと揶揄されていますが、そういうところも戸田さんならではのサービス精神と思えばいいのです。
たとえば、作品の中で登場人物がクイーンズイングリッシュを使うのか、テキサス訛りで話すのかで人物の方向性はかなり変わります。
それに戸田さんばかり批判していると、はたから見るとおばあちゃんイジメになっちゃいますし、あのクラスの偉い人に対して「間違えたら頭下げろ」と迫っても無理なところもあります。今さら謝ったところでどうにかなるものでもありませんしね。
現在、洋画は小規模公開のものも含めると年間500本以上公開されているといわれています。それを限られた人数の字幕翻訳者が訳しているわけで、さすがにミスも起こります。それをミスが起きないように2~3人で訳すことも可能でしょうが、そうなると入場料の値上がりにつながる可能性もあります。したがって、多少のミスもおおらかに見守ってあげるほうがいいかなと思います。
やや諦観すら漂うコメントを前田氏から頂いたが、映画業界全体に関するシステムの問題も多く存在していることは間違いない。
戸田氏は今年で80歳を迎えるが、いまだ現役で字幕翻訳を続けている。そのバイタリティとサービス精神は少なからず評価してもいいポイントだろう。
(文=牛嶋健/A4studio)