未曾有の高齢化社会を迎えるなか、今年87歳を迎えながらも精力的に動き続ける、元NHKアナウンサーの鈴木健二氏。過去に『気くばりのすすめ』シリーズ(講談社)や『男がしておかなくてはならないこと』シリーズ(大和出版)を執筆したベストセラー作家でもある鈴木氏は、6月に『気くばりのすすめ、三十四年目~どっこい、まだ生きております』(サイゾー)を上梓した。
その鈴木氏に、現代社会を生きる心構えや現在の生活、過去の逸話に至るまで話を聞いた。
●老後、60歳から無収入なら1億円必要?
--いくつかの調査を見ると、昨今は、多くの60代のサラリーマンが70歳まで働くことを希望しています。鈴木さんは「75歳まで働くべきだ」と提唱し、ご自身も実践されました。その意図は、なんでしょうか。
鈴木健二氏(以下、鈴木) 私が本書の原稿を書いていた頃、日本人男性の平均寿命は78歳でした。私は、75歳まで働いて、その間に貯めたお金を使って78歳までの3年間は好きなことをやって楽しんで暮らそうと考え、75歳で引退することを宣言したのです。
高齢になると医療費がかかるようになりますが、厚生年金も国民年金も受取額が下がっていく時代になりました。仮に、夫婦2人が60歳から無収入で80歳過ぎまで暮らすには、1億円の貯金が必要ですよ。それだけの貯金がなければ、収入が必要です。
それに、私は「第二の人生」という言葉が嫌いです。人生はひとつで、第一も第二もありません。この考えの元になったのは、胎児に対する議論です。
--中央教育審議会の前身である文教懇(文化と教育に関する懇談会)の委員をされていた時の議論ですね。
鈴木 文教懇は、昭和58年に総理大臣の諮問機関として設立されました。委員は井深大さん、山本七平さん、曽野綾子さん、石川忠雄さん(元慶應義塾塾長)、それに私の5人。当時、胎児は喜怒哀楽の表現ができないので人間とみなさず、その生命は子宮を有する母親の自由であるという考えが強くなっていました。それに対して、私はこう主張したのです。
「受精卵が子宮内に着床した時に生命は誕生し、この瞬間から、すべての人間はあらゆる良い教育を受ける権利を持つ」
誕生の前後で人生を区切ることに、反対を表明したのです。これ以降、定年退職の前後で第一、第二と人生を区切ることに異論を持つようになりました。
●40~50代で花開くために30代ですべきこと
--「今の時代も、人生50年」という見解をお持ちですが、その根拠について聞かせていただけますか。
鈴木 私が50歳だった37年前も今も、50歳の時に、会社なら社長や専務や取締役、官庁なら次官や局長になれる位置にいるかどうかで、その後の人生が大きく変わってしまいます。そういう位置にいなければ、窓際族で定年を迎えることになるでしょう。だから、今の時代も人生50年なのです。
--最近では、「40歳定年」という考えも登場していますね。
鈴木 その考えはいいですね。技術者の場合、自分の技術が現場で通用するのはだいたい30代までで、その後は管理職になっていきますからね。50歳で一度、退職金を支払う会社もあると聞いたことがありますが、50歳は次の人生を選択する年齢です。50歳以降の仕事人生の区切り方は、50歳から60歳までを前期、60歳から70歳までを中期、70歳から75歳までを後期とするのがいいでしょう。
--40代に入って幹部候補にリストアップされるためには、30代で頭角を現さなければなりません。30代で大切にすべきことはなんでしょうか。
鈴木 なんでもいいから、得意な技を磨くことです。「一芸に秀でる者は多芸に通ず」といわれるように、得意な技を身につけると、その技を中心に物事がさまざまな見え方をするようになってきます。学生時代から読書が好きなら読書に関することでもいいですし、料理が趣味なら料理の腕を上げることでもいい。仕事に関係しないことでもいいのです。
私が三菱グループの全社長が毎月集まる会議を取材した頃は、毎月当番となった会社で会議を開いていましたが、ある1社の社長が非常に人気を集めていました。
--頭角を現すかどうかは、めぐり合わせもあると思います。上司との折り合いや、配属された部門が成長部門か衰退部門かなど、運の良し悪しにも左右されるのではないでしょうか。
鈴木 めぐり合わせが悪い時には我慢することです。どんな嫌な上司でも3年たてば異動するのですから、それまでの我慢です。また「地位が人をつくる」といわれるように、最初は嫌な上司でも、時間がたつと上司に値する人物に変化することもあります。
衰退していくような部門に配属された場合は、チャンスが来るまで待って、その間に希望する部門に異動できたら活躍できるように、実力をつけておくことが大切です。
●NHK時代にあった佐藤栄作からの出馬要請
--鈴木さんは、松下幸之助さんに、登用すべき人材について相談されたことがあるそうですね。
鈴木 松下幸之助さんは、後継者に悩んでいました。ご本人が偉大すぎたのですが、私が「どうして後継者を選ばないのですか?」と質問すると、「どんな人が後継者にはいいのだろうか?」と逆に質問されました。
私は、忘年会やレクリエーションで、まわりから推されて幹事になる人に好感を持つことを話しました。
--ご著書で、何かをやり遂げた人たちに共通することとして、美に対して高い関心を持っていることを挙げています。美に対する関心が、やり遂げる力にどう関係するのでしょうか?
鈴木 美に対する関心とは、芸術への関心に限ったことではありません。幼稚園児たちを動物園に連れて行くと、先生がゾウやキリンに関心を向けさせようとしても、園児たちは地面を這う蟻の行列を夢中になって見ていることがあります。蟻の行列が感性に響き、自然の美を感じ取っているのですね。
喜劇王のチャールズ・チャップリンは、「木の葉の揺らぎ、風のそよぎに耳を澄ます。それが人を愛し、芸術を愛する心です」という言葉を残しています。例えば、女性のちょっとした仕草や自然の変化に感動する心は優しさにも通じて、人生を豊かにしてくれます。美への関心は人間のささいな行動への関心にもつながるので、何かをやり遂げる力にもつながっていきます。
--『気くばりのすすめ』シリーズ(講談社)などのベストセラーを立て続けに書き、全国的な知名度を持ちながら、NHKを途中で辞めずに定年まで勤務されました。
鈴木 在籍中には、政界からのお誘いがありました。元首相の佐藤栄作さんから「ぜひ、わが党からご出馬いただきたい」と要請されました。私は「出馬するならNHKを辞めて大学に1年間籍を置き、憲法をしっかりと勉強する必要があります。憲法を学ばないで出馬することは有権者に失礼です」と申し上げて、お断りしました。その3日後、今度は社会党委員長の飛鳥田一雄さんから「ぜひ、わが党から」と。
アナウンサーが政界に身を転じても、票集めの客寄せパンダとして利用されるだけですからね。何人かのアナウンサーに出馬を相談された時には、いつも「おやめなさい」と答えたものです。
●学長就任の打診、大学からの意外な要望
--大学からも、教授就任の打診があったのではないでしょうか。
鈴木 いくつかの私立大学から、学長就任の話がありました。学長になって何をすればいいのかを尋ねたところ、どの大学の答えも、ほぼ3つでした。一番目は、教授同士を交流させること。
二番目は、教授と学生を交流させること。そして、三番目は知名度を生かして受験生を集めることです。放送局で培った専門知識を求めてくるのならわかりますが、どの大学もそうではありませんでした。
また、放送局の職員から大学教授になっても、週に何度か講義する程度で、同じ教授でも、研究実績を積み重ねて就任された方とは違います。
--知名度の活用を選択されなかったのですね。
鈴木 テレビや出版を通して、私に無断でつくられた「鈴木健二という名の虚像」が世の中に広まり、私を憂鬱にさせたのです。昨今は、若い男女が「有名になりたい」という動機でテレビに出たがっているようですが、虚名は自分を苦しめるだけですよ。本物の知名度とは、しっかりとした仕事を成し遂げて世の中に広まっていく名声のことです。
--NHKにとっては、定年まで勤めていただけてよかったのではないでしょうか。
鈴木 私は定年退職の当日まで働きましたからね。退職日の夕方まで働きました。
--有給休暇を取らなかった?
鈴木 NHKには、有給休暇を消化できなかった場合、1日あたりいくらと金額を決めて買い取ってもらえる制度がありました。ところが、私が退職する前にいつのまにか廃止されてしまったのです。私は頭に来て文句を言いましたけど……。
NHKには、十分に貢献したと思っています。例えば、営業部門から頼まれて、受信料を納めていただくために各地で開かれる住民説明会でよく話をしましたが、1年間に73回も話したこともあります。視聴者はお客様です。私の実家は東京・下町の商家で、子供の頃から両親の行動を見続けてきたので、お客様に頭を下げるという感覚が身についています。
NHKで初の仕事もいくつかやりました。そのひとつが日本共産党の取材で、巣鴨プリズンを訪ねて志賀義雄(元衆議院議員)や徳田球一(同)を取材しました。
--現在の鈴木さんは、どんな日常を過ごされていますか。
鈴木 何もしていません。年金生活のフリーターです。原稿執筆をしたりして過ごしていますが、これも定年退職前に住宅ローンを払い終え、75歳まで働いたからです。
--これからも、お元気で過ごされることを願っています。本日はありがとうございました。
(構成=小野貴史/経済ジャーナリスト)