数々の映画新人賞を総ナメにしている俳優の菅田将暉。今、日本で一番光っている俳優の一人だ。
菅田の父親である菅生新氏は、経営コンサルタント業を営み、関西方面でいくつかのビジネス関連の冠番組を持っている。もともと自己啓発プログラムの販売を行っており、年間1億円以上の売り上げをあげていたほど。
「週刊誌などで菅田のことについて積極的にコメントしているため、菅田のイメージダウンにならないか、関係者の間では心配されてきました」
しかし、同書を読んでみると、菅田のデビューに尽力したのは、まさしくこの新氏だということがわかる。菅田が高校生のころ、「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」の最終選考で落選。半べその菅田に「次のステップに進もう!」と声をかけて励まし、それ以来デビューに向けた活動を主導してきた。
まず、父親の強力な人脈をたどってエイベックスに面談に行くも、「エイベックスは音楽事務所だから、新人俳優のプロデュースは難しい」と断られてしまう。次に和田アキ子の紹介でホリプロに面談を頼んだところ、「ジュノンボーイから2人採用しているので」と断られる。最後に知人社長に紹介されたのが、今の所属事務所であるトップコートだった。社長面接を、なんとかしなければならないと、全力で息子のアピールをしたという。
「私の面接でもないのに喋りすぎて、『お父さんは黙っててください』と言われてしまいました」(同書より)
菅田の個性的な雰囲気を見込んで、トップコートが所属見込み生として預かることが決まった。演技の基礎を勉強しながら、大学に入学してからデビューという段取りだったという。
「私は複雑な気持ちでした。まず早稲田大学に入るという、私と息子の約束はどうしたらいいのだろう」(同書より)
結局、早稲田進学よりも役者に進む道を選択したのだ。仮面ライダーの主役になれば、結構なギャラが入ると新氏は皮算用していた。しかし、それは大きな見込み違い。息子が売れるまでにかなりの出費を伴ったという。
「主役に抜擢されて、ひょっとしたら悠々自適かなと甘く考えていました。周りからも、『これで菅生家も安泰ですね』と言われましたが、実際は火の車でした」(同書より)
そんなお父さんの努力が実って、今や引く手数多の俳優に成長した。「できるできる、私はできる」というのが菅田の実家の家訓で、トイレにも貼ってあり、菅田本人も「本番前に、舞台の袖で『できるできる』って自分に言い聞かせている」という。
(文=編集部)