●中野北口は、お犬様、陸軍、中野ブロードウェイという珍しい変遷

 中野というと今はおたくの聖地「中野ブロードウェイ」があまりにも有名である。「中野ブロードウェイ」は1966年に高級マンションとして設計されたものであり、地下1階から4階までに商業施設が入り、マンションの中で生活が完結できるようにつくられた。



 開発者は原宿駅前のコープオリンピアと同じ東京コープ販売の宮田慶三郎である。設計は馬場信行。中野駅から北に延びるサンモール(中野北口美観商店街)が、古い木造家屋が密集する一帯でさえぎられていたのを再開発して、早稲田通りまで通れるようにし、通りの上に4階建ての商業ビルを建設するというのが当初の計画だったが、結局は、商業ビルの上にマンションができることになったのだ。中野ブロードウェイは竣工当初かなりの話題になり、沢田研二や青島幸男が住んだというから、今だったら嵐と秋元康が住んでいるようなものだ。 
 
 最近はキリンビール本社、早稲田大学、明治大学もできて、中野駅北口はますます活気づいている。しかし中野駅北口というのは本来は陸軍の街である。江戸時代は徳川綱吉の「生類憐みの令」によって江戸市中から集められた「お犬様」を飼っておく場所だった。今、サンプラザやNTTのビルや早稲田、明治があるあたりである。囲われた中に犬がいたので、昔は囲町といった。

 陸軍があったということは軍人が遊ぶ場所があったということであり、それがブロードウェイの北側にある新井三業地だった。前回の平井の回でも書いたように、新井は阿部定に一物をちょん切られた吉蔵の経営する料亭があった花街であり、吉蔵と定はその料亭で出会ったのだ。

●新井三業地の歴史

 新井三業地の場所は、ブロードウェイの北側の早稲田通りを、ちょっと東に歩いてから商店街の「あいロード」に入り、しばらくして右折する。
この商店街はまだ昔の風情を残しており、なかなかレトロで楽しめる。

 あるいは新井薬師参道よりさらに東の中野5丁目という信号を左折し、北上する。すると「柳通り商店会」という表示が見えるから、その左右が三業地だ。通りの東側に料亭、西側に待合と置屋があったらしい。

 言うまでもないが、「柳」と付く地名はたいがいが花街である。

 中野区新井はもともと新井村。その後、野方村大字新井となり、1924年に野方町、1932年に中野町と合併して中野区となった。1927年には高田馬場から東村山を結ぶ鉄道の村山線(現在の西武新宿線)が開通し、新井薬師に参拝する人も増え、地価が2倍に上昇したという。

 また、時代はさかのぼるが、1910年には市ヶ谷から監獄が移転してきた。豊多摩刑務所である。刑務所の前には「放免茶屋」と呼ばれる茶屋ができて、出所した人が風呂に入ってから、迎えに来た家族と一杯酒を飲む場所になっていたというから面白い。

●見つかった料亭の名残

 三業地ができたのは1925年である。
もともと新井薬師近くには「萬屋」「角屋」「山口家」「辰美野」という料亭があったが、その料亭の主人たちが三業地指定の請願活動を行った。萬屋や辰美野は窪寺という一族が経営していたが、その一族に新井町の収入役がいたこともあり、請願が認められ三業地ができたらしい。

 こうして1929年頃には待合の数は23軒、置屋は40軒、料亭は11軒となった。花街周辺には、寿司屋、うなぎ屋、洋食屋、カフェなどが集まり、にぎやかになっていった。また、あいロードの早稲田通りに出る手前には「昭和亭」という、1階は商店で、2階が大衆演劇の寄席になっている施設もできたという。

 昭和40年代の地図を片手に現地に行ってみる。地図だとまだかなり料亭が残っており「つたや」などの店名が見られる。その料亭のある場所に行ってみると、料亭はもうなく、料亭の周りにあったらしい小料理屋も廃屋になっている。

 ただし元料亭らしい木造の建物は少しだけ残っており、色気のある雰囲気を漂わせている。「つたや」があったはずの場所はマンションになっているが、そのマンションの名前が「アイビーマンション」だった! アイビーは英語で「つた」である。

 街歩きをして、その街の過去を知りたいときは、こういうふうに、マンションやビルの名前を詳しく見ないといけない。よく見れば必ず何かが見つかるのだ。


参考文献
中野区教育委員会『新井・上高田』1999年
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

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