●「記憶にございません」はウソの証拠?
記憶というのは、政治家や官僚にとって非常に便利な言葉のようだ。
「記憶にございません」
「私の記憶するかぎり、そのようなことはありません」
このところ政治家や官僚がこのようなセリフを口にする場面が多いが、なぜこんな言い方がまかり通るのか、じつに不思議である。
「そういった発言をした記憶はございません」というのは、「そういった発言をしました」と言っているのと同じだ。なぜなら、本当に発言していないのなら、「そういった発言はしていません」と言うはずだからである。「私の記憶する限り、そういうことはありませんでした」というのも、「そういうことがありました」と言っているのと同じだ。本当にそういうことがなかったのなら、「そういうことはありませんでした」と言うはずだ。
わざわざ記憶を引き合いに出さなければならないのは、いざウソがばれたときに、記憶のせいにして非難されるのを防ぐためだ。
記憶のせいにしてウソをつくのは、何も政治家や官僚に限らない。ビジネスの場においても、「そんなことを言った記憶はありません」「そんな約束をした覚えはありません」などと、記憶のせいにする姿勢が見えたら、これは怪しいと思うべきだろう。
記憶のせいにすれば、万一ばれた場合も、ウソをついたことにはならない。「うっかりしてました」「記憶違いでした」ですむ。
そんなふうに便利に悪用されがちな記憶だが、なぜそうした使われ方がまかり通るのか。それは、誰もが記憶のスレ違いという現象を日常的に経験しており、記憶というものが極めて曖昧な性質を持つことを知っているからだ。
ここまでみてきたことは、「意識レベルの記憶のウソ」ということができる。それに対して、「無意識レベルの記憶のウソ」というものがある。そこでは、本人自身が自分の記憶に騙されるのである。
●記憶はねつ造できる?
記憶が無意識レベルでウソをつくということになると、私たちは自分自身の記憶に騙されることがあり得ることになる。記憶の曖昧さについては、誰もが日常的に経験しているはずだが、「あなたの記憶はじつは偽物です。ねつ造されたものなのです」などと言われても、にわかに信じることはできないだろう。
だが、記憶の偽造というのは、案外簡単にできることが、心理学の実験によって証明されているのだ。
心理学者ロフタスが、記憶がねつ造されることを証明するために行ったのが、ショッピングモール実験である。それは、次のようなものだ。
実験協力者の家族から、当人が子どもの頃に経験している出来事を3つあげてもらう。そして、実際には経験していないことを確認した上で、ショッピングモールで迷子になったという偽の出来事を加えて、4つのエピソードを示し、それぞれについて思い出すことを記入してもらう。
その結果、ある若者は、実際には経験していないにもかかわらず、「本当に怖くて、もう家族には会えないかもしれないと思った」とその時の恐怖を思い出したり、「お母さんがもう二度と迷子になっちゃダメよと言った」と母親から注意されたのを思い出したり、「おじいさんのフランネルのシャツを思い出した」と助けてくれた老人の服装を思い出したりしたのだった。
実際には経験していないのに、経験していると思い込まされることで、具体的な詳細まで思い出してしまうのである。いや、思い出すのではなく、記憶をねつ造してしまうのである。
その若者に、じつは4つのうちひとつは偽物のエピソードで、実際には経験していないのだと伝え、それはどれだと思うかと尋ねると、なんと実際にあった出来事のひとつを選んだのであった。記憶のねつ造、大成功である。
この実験を18歳~53歳の24人に対して行ったところ、実際に経験している3つの出来事については68%がすぐになんらかのことを思い出した。一方、偽の出来事については、29%しか思い出さなかった。29%と68%というように大きな差がついたが、重要なのは実際に経験していない出来事について、3割がなんらかの事を思い出したという点である。
本当はショッピングモールで迷子になどなっていないのに、そのときの恐怖心を思い出したり、母親から後で注意されたことを思い出したり、助けてくれた老人の容姿・容貌や服装を思い出したりする者が3割もいたのだ。
私も、ロフタスと同様の実験を何度か行ってみたが、いずれの場合も記憶のねつ造に成功した。
ただし、経験していない出来事が突然記憶に入り込むということではない。どこかで迷子になったことがある。何かで母親から注意されたことがある。
こうして記憶は案外簡単にねつ造されてしまうことが証明されたのである。
●記憶は今を映し出す
政治家や官僚が「記憶にございません」というのが、その言い方からしてウソだとわかるということはすでに指摘した。その場合は本人もごまかしているつもりなのだろうが、職場の上司や同僚、部下や取引先など日常的に接している人のなかにも、平気でウソを言う人物がいるものだ。
「なんで、あんなウソを平気で言えるのだろう」と理解に苦しむかもしれない。だが、もしかしたら本人にウソをついているつもりはないかもしれない。その場合は、本人がウソをついているのではなく、記憶がウソをついているのだ。
そのことを証明した調査がある。それは、4年の間隔をおいて同じ人たちを対象に実施された政治意識調査をもとにして行われたものである。そこでは、4年間のうちに支持政党が変わった人たちを抽出し、その人たちに、4年前と支持政党が変わったかどうかを尋ねている。
その結果、なんとそのうちの9割が「自分は支持政党を変えていない」と答えたのである。
このようなデータからわかるのは、記憶というのは、今の自分に都合のよい方向に変容するということである。あんなウソをなぜ平気で言えるのだと理解に苦しむ相手も、じつは記憶が今の自分に都合よく変容してしまっているため、偽の記憶を信じ込んでいるのかもしれない。それならば、悪びれもせずに堂々とウソを言えるわけだ。
もしかしたら、あからさまなウソを主張する政治家や官僚の頭の中でも、今の自分に都合よく記憶の変容が生じており、偽の記憶を信じ込んでいるため、見苦しいウソを平気で主張できるのかもしれない。
●記憶を過信しない
そんな曖昧な記憶だが、私たちは自分の記憶は確かなものだと思って日常生活を送っている。自分の記憶を前提にして、さまざまな人とかかわっている。知人とかかわる際も、その人とのかかわりの記憶に基づいて話しかけ、対話をする。「待てよ。この記憶は偽物かもしれないぞ。それは、もしかしたらほかの人とのやりとりの記憶かもしれない」などと自分の記憶を疑っていたら、日常の流れが止まってしまう。
仕事相手との交渉の場でも、その人とのこれまでのやりとりの記憶をもとにして交渉を進める。その際に、「記憶に騙されてるかもしれない。この記憶は、本当にこの人とのやりとりの場の記憶だろうか?」などと疑っていたら、非常にぎこちなくなり、交渉どころではなくなってしまう。
ゆえに、私たちはなんの疑いもなく、自分の記憶を前提にして暮らしている。私たちの行動は、ほぼ自動的に記憶を参照しながら決定されている。だが、私たちの記憶の中には、偽物の記憶が混じっている可能性が十分あるのだ。
自分が経験したと思い込んでいても、実際には経験していないかもしれない。こういうことだったと記憶している出来事も、本当はちょっと違った出来事だったのかもしれない。この人とのやりとりだったと思い込んでいることが、じつは別の人とのやりとりだったかもしれない。
記憶違いが仕事において致命的なミスにつながることもある。記憶違いが人間関係のトラブルを生むこともある。そうしたことを防ぐためにも、自分の記憶を過信しないことだ。
記憶はウソをつく。このことを忘れないようにしたい。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)
※関連書籍
榎本博明『記憶はウソをつく』祥伝社新書