港区というと今は外資系企業と華やかな消費の都市というイメージだが、昔は工業都市でもあった。工員などブルーカラーがたくさん住んでいた。

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』も東京タワーの近くの芝の自動車整備工場が舞台であり、東北から集団就職で上京した中卒の少女が住み込みで働いているという設定である。

 港区は戦前は赤坂区と麻布区と芝区の3区だった。芝区は、高台は白金台など高級住宅地だが、南側の古川沿いは工業地帯であり、川は東側の海沿い(芝浦など)に流れていき、やはり大きな工業地帯として発展した。白金台は高台でセレブでも、白金は低地であり、工場地帯だったのだ。麻布区の一部も古川沿いであり、南麻布の南端は古川沿いで、今も小規模な工場や倉庫や銭湯がある。

 古川沿いは、江戸時代からある程度栄えていたが、明治時代に三田製紙所(三田小山町)、工部省赤羽製作所、海軍造兵廠(赤羽町)が設立され、第一次世界大戦(1914~18)を契機として、一ノ橋より上流に多くの工場が立地するようになった。その中心は金属製品や機械の製造工場であり、芝浦方面が大工場であったのに対し、古川沿いでは小規模経営による設備投資が行われた。

 関東大震災(1923年)後は、芝浦の埋立地に臨海工業地帯が形成された。古川沿岸低地にも金属製品や機械の小規模の工場が、一ノ橋上流、麻布新広尾町、芝白金志田町、白金三光町などで増えたという。また、満州事変(1931年)後は軍需の下請け工場が古川沿いに集中した。1908年の芝区の工場数は72だったが31年には工場数は1629に増えている。

 こうした繁栄を受けて、1913年には麻布網代町(あじろちょう)から山元町にかけての土地に三業地ができて、城南有数の盛り場として栄えた。
それが今の麻布十番交差点の南側である。

●客が大挙した麻布花街

 もともと江戸時代にも岡場所が麻布市兵衛町(いまの泉ガーデンのあたり)、麻布永坂町などにあったらしいが、明治になると地主の安藤茂吉が麻布十番に花街創設を狙って元・保科肥後主の下屋敷の土地を買った。その土地は最初根津嘉一郎が買い、別邸としたが、その後住宅地として転売されたところで、海軍工廠(こうしょう)や三田あたりの工場に勤務するサラリーマン、あるいは学生が住んでいたという。

 人口増加に伴って商店、飲食店ができ、今でいう風俗店もできてきた。そこで安藤らの地主は三業地指定を受けて、怪しい風俗業者を追い出し、正式に芸者遊びができるようにしようとしたのである。三業地開設当初は待合2軒、芸妓屋7軒があり、芸者14人、半玉6人がいた。初代産業組合長は、安藤義春であり、「彌生」(やよい)という待合を経営していた。

 1914年には上野公園で大正天皇即位記念の大正博覧会が開催され、麻布花街も参加した。白山の花街芸者も1923年の大正博覧会に出演しているので、当時は芸者衆が博覧会に出るのは普通のことだったらしい。博覧会に出ることで芸を磨くことができたからである。

 麻布の芸者衆は、そこで「朧月猫妻恋」を演じた。これは明治初期に流行した「猫じゃ、猫じゃ」という踊りである。
一体どういうものかは私も知らないが、風俗史の本にはよく出ている。麻布芸者がそれを踊ったので、山の手の麻布から猫が来たというので「麻布の山猫」という異名を芸者衆はもらうことになった。

 第一次世界大戦によって景気が良くなると、麻布花街は鉄工機械工場関係の客が大挙訪れ、1918年ごろには連日連夜芸者遊び、午後2時になると芸者が置屋からいなくなるほどだったという。

 さらに23年の震災後は、下町の花街が被災したのに、麻布は被害が少なかったので、客が麻布に押し寄せ、麻布の最盛期を迎えた。震災後に栄えたのは五反田の花街と同じである。震災は人口を東側の下町から西側の山の手に移動させたが、花街も移動したのである。麻布十番の夜の賑わいは、渋谷の道玄坂か新宿かと思われるほどとなり、露店が出て人波がごったがえしたという。

 麻布十番は十数年前まで電車の駅もなく、六本木から流れた芸能人らがたむろするくらいだったが、その後地下鉄2路線の駅ができ、東京散歩ブームもあって、今は賑わっている。

 古川沿いは、ほとんどの工場、倉庫はマンションやオフィスビルなどに建て替わっている。それでもかつての名残を見ることができて、銭湯もまだある。麻布十番方面にお出かけの際は、まずは昔の工場地帯を歩き、銭湯に入ってから酒を飲むようにしてはいかがか。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

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