●石塔の発見と調査の開始
1982年、チベット(当時)に遠征していたフランスの探検家ミシェル・ペイサル(1937-2011)は、中国との国境沿いのヒマラヤの渓谷において、奇妙な背の高い石塔がいくつも建ち並んでいたのを発見した。その後、ペイサルは1990年代にメコン川の水源や古代種のリウォチェ馬(チベット北東部原産の焦げ茶色の小型の馬)などの発見で知られるようになったが、遠征中に両足を骨折し、謎の石塔をはじめ、自身の数々の発見を追跡調査していくことは断念した。
そんな折、ペイサルの友人フレデリック・ダラゴン氏がユキヒョウの生態を調査するためにチベットに行くことを知った。そこで、ペイサルは彼女に必ず石塔を見てくるように言った。ダラゴン氏はポロの一流選手で、ある時期、CNN創業者テッド・ターナー氏の恋人でもあった。
1996年、ダラゴン氏は四川省とチベット自治区との境界付近を訪れた。ある日、ユキヒョウの調査中、彼女は暴風雨に見舞われた。雨宿りできる場所を探していたところ、彼女は近くの山の斜面に背の高い石塔がそびえ立っていたのを発見。翌日以降、さらにその周辺地域を調べてみると、同様の石塔がいくつも存在することに気付いた。
それらはいったいなんなのか? いつ誰がなんの目的で建てたのか? 彼女はそれらの雄大な建造物に心を奪われ、結局、ユキヒョウの生態調査プロジェクトは投げ出してしまうことになった。
1998年、いったん母国フランスに帰国したダラゴン氏は、2年間、いくつもの図書館に通っては石塔についての文献を徹底的に読みあさった。そして、十分な準備を経た彼女は、本格的に石塔調査に乗り出した。度重なる調査活動のため、彼女は現地に家を購入し、150基を超える石塔を調査した。
もはや、彼女の人生は完全に方向づけられ、自己の目標は、その地域の石塔すべてを図に記し、それらにまつわる歴史と建造目的を探り出すことになったのである。
2001年、ターナー氏の助けを借りて、ダラゴン氏は石塔を調査するユニコーン財団を設立。2004年には、中国の研究者と四川大学と協力して、四川大学ユニコーン遺産協会を共同設立した。そして、彼女は各地で石塔の写真展を開催し、それらの保存と世界遺産への登録を目指して今なお精力的に活動している。
●奇妙な石塔の詳細
さて、ダラゴン氏が魅了された石塔とはいったいどのようなものなのだろうか?
まず、石塔が分布するのは、カムと呼ばれる地域で、具体的には、四川省成都(チェンドゥ)の西に位置するチャンタン(チャン族が暮らす理県、ブン川県、茂県)、 ギャロン(カンゼ・チベット族自治州のギャロン語圏)、 ミニヤ(九竜県を含むカンゼ・チベット族自治州の雅ロウ江沿い)、そして、チベット自治区の南東部で、拉薩(ラサ)の北東に位置するコンポ地区(コンボギャムダ県およびニンティ市)の4地域である。標高1500~4000メートルほどの山々の斜面に存在する。
いずれも現地まで車で行けるような舗装路は存在しない辺境にある。夏は多雨による土砂崩れ、冬は豪雪や雪崩があり、アクセスに極めて困難を伴う。だが、そんな辺境の地は、山岳地帯のなかでも比較的温暖で、麦やトウモロコシなどの農作物が豊かに実る。それが理由で、人々はその地で長く暮らしてきたと思われるが、彼らは石塔が立ち並ぶなか、農業による自給自足の慎ましい生活を送っている。
農業という点においては、山岳地帯における聖域とも思われる場所であるが、なぜ人々は足場の悪い山の斜面に通常の住宅の用途を超えた建造物、すなわち、背の高い石塔を建てたのだろうか? 高いもので50メートルほどに及ぶ石塔が数百基もあるのだ。
しかも、石塔の構造は決して単純なものではない。多くの石塔には縦に筋が入っており、断面の形状は星形になっている。
使用された石は、特別に加工されたものではなく、わずかな粘土質の泥をセメント代わりに利用して、互い違いに巧く積み上げられている。それぞれの石塔は、上に向かうにつれて先細りしているが、未加工の石材を使用しているにもかかわらず、極めて正確な点対称構造を維持し、美しいシルエットを描いている。かなりの技術である。
なお、チベット南東部で発見された石塔の断面は、奇しくも南米ボリビアにあるプレ・インカ期のプマ・プンク遺跡で発見された精巧なレリーフ模様と酷似していることも興味深い。
●いつ、誰が建てたのか?
だが、そんな美しい石塔も、いまや多くが地震や風化によって崩れつつある。いったいこれらの石塔はいつ建造されたのか?
実のところ、石塔とともに暮らす現地の人々も、いつなんの目的で建造されたものなのか、ほとんど何も知らないという。仏教僧らもなんの情報も持っていなかった。一部の石塔がヤクやポニーの小屋として利用される以外、放置されたままである。彼らは文字を持たず、記録を残す習慣もない。
歴史的な資料を調査した結果、ダラゴン氏は、石塔に関して明(1368~1644年)の時代の古文書に最初に書かれていることを知った。そのため、それ以前から存在していたことがわかったが、資料は乏しいのが現実である。
科学的な分析を行うにしても、石塔は石でできているため、その建造年代を正確に割り出すことはできない。だが、石塔の内部に木材が使用されている個所がある。内部は空洞になっており、たとえば、各階の床は壁に埋め込むように渡された木製の梁によって支えられているのだ。そして、細い梯子をかけて昇り降りされていたと考えられている。
そこでダラゴン氏は、2000年までに77基の石塔に家屋、寺、城を加えた建築物から108の木材サンプルを採取し、炭素年代測定を行ってみた。すると、それらは500~1800年前のものだと判明したのだ。
そうなると、石塔の多くは崩れかかっているものの、現在まで残されていること自体、奇跡に近いといえるだろう。ヒマラヤの山岳地帯は、日本ほどではないかもしれないが、地震の多い地域である。一見、原始的でシンプルに積み上げられたように見える石造の塔に何か秘密があるのだろうか?
限られた調査によれば、耐震性のひとつは、その独特の構造、つまり、星形断面にあり、壁の厚みの増す部分が控え壁の効果を発揮することで得られていると考えられるという。また、朽ちつつあるものも多いが、床を形成する木製の梁も構造的に貢献してきたと考えられている。
●建造目的の謎
肝心の建造目的はいったいなんなのだろうか?
地元住民はそれを明確に把握しておらず、その説明は人それぞれだという。たとえば、ミニヤにおいては、盗賊のような敵の侵入に備えた見張り台であると考える人々がいた。コンポや丹巴県では、富と誇りのシンボルで、貿易によって富を得た者たちが建てたとするものもあれば、息子の誕生時に基礎がつくられ、誕生日を迎えるごとに各階が追加されていったとするものもあったという。
ちなみに、石塔の先端部分は、かつては尖っていたとされる説もあるが、半分が削られ、ベランダのようになって残っているものもある。後者の場合、見張り台としての機能は果たせるといえるが、それだけで手の込んだ塔のデザインや構造を説明できそうにない。
特に興味深いことは、石塔に開けられた入口または窓が、地面からかなり高い位置に存在するものが少なからずあり、そう簡単にアクセスできないことである。出入りのために、特大の梯子を要する場合もある。
そう考えると、いったい石塔の建造目的に何が考えられるだろうか? ダラゴン氏をはじめとする研究者らは気づいていないようだが、これらの石塔の特徴は、奇しくもアイルランドに存在するラウンドタワーと共通する。代替科学の研究者として、筆者は7年前、拙著『宇宙エネルギーがここに隠されていた』(徳間書店)を通じてラウンドタワーの謎について説明したが、ヒマラヤの石塔も基本的に同じと考えられる。ご存じない読者からすれば、信じがたいことかもしれないが、それは、頭上から降り注ぐ電磁波や磁気エネルギーなどを受け止めるアンテナであると同時に、霊的儀式が執り行われた場であった可能性も考えられるのである。
(文=水守啓/サイエンスライター)