9月4日、関西国際空港(大阪府)は観測史上最大の瞬間風速58.1メートルの風に見舞われ、高潮が第一滑走路や空港ビルに流れ込み完全に機能マヒした。だが、驚くべき早さで一部を再開させたが、その背景とは――。
空港近くの海上で投錨停泊していたタンカー「宝運丸」(2591トン)が強風で連絡橋の橋げたに激突。3車線の道路がずれて鉄路に被さった。陸から空港への唯一の連絡橋の鉄道は運休。道路も使えず5日朝からは神戸空港と結ぶ連絡船「ベイ・シャトル」が利用客らをピストン輸送した。神戸空港の船着場に走ると、大阪のデザイン学校から研修でロンドンに級友3人で行く予定だった学生が「計画はぱあ。払い戻しもないらしい」と途方に暮れていた。
一方、食文化研究でバンクーバーに研修旅行する神戸松陰女子学院大の学生たちも戻ってきた。迎えに来たアラン・ジャクソン国際交流センター長は「JTBがなんとか中部国際空港から行けるようにしてくれた」とほっとしていた。この日、シャトルは夜中までピストン輸送。道路は反対側の3車線が一部、開通したがバス待ちは長蛇の列。連絡橋でも大渋滞し、8000人近い乗客や店舗従業員、空港職員ら全員が空港を脱出できたのは6日午前1時頃だ。
この日、西日本高速道路の許可を取り、車を誘導してもらい関空へ向かった。
●いきなり首相の再開宣言
第一ターミナルの薄暗い待合室で弁当を食べていたのは出入国管理局の男性職員。「国際便が飛ばないと仕事がない。5時まで何して過ごそうかな」と手持無沙汰そう。
「台風は仕方ないけどタンカーが悪い。どこかにきちっと停泊させられなかったのか。
電線などを海底ケーブルにしておけば違ったはずだ。場所によっては携帯電話にまだ「圏外」が出ていた。
空港に居ながら知らなかったのだが、この日の昼前、関西エアポートの山谷佳之社長が「被害の少ない第二滑走路を使って、明日復旧第一便を飛ばします」と会見していた。翌7日正午前、ピーチ・アビエーションの「復旧第一便」が新潟へ飛んだ。「メドが立ちません」(同社長)としていた国際便も8日に再開した。一部とはいえ再開がこんなに早いとは「想定外」だった。背景に首相官邸サイドの強権発動がある。
実は6日の朝、安倍晋三首相が「再開します」と勇ましく会見発表していたのだ。安全確認を最重視する現場へのいわば「命令」である。1機だろうが2機だろうがまずは飛ばさせ、メディアに「再開」と報じさせることが最優先だったのだ。背景には、格安航空などのインバウンド(訪日外国人客)でバブルだった大阪経済、さらには国際機関の選定が迫っている2025年の「大阪万博」誘致を心配した松井一郎大阪府知事が上京して官邸サイドを突っついていたことがあるが、こうした「強権政治」にうすら寒いものを感じる。
●地盤沈下との戦い
皮肉なことに台風に襲われた日が開港24周年だった関空。
第一滑走路は04年の台風で浸水し対策を進めていたが間に合わなかった。第二滑走路は護岸を3メートルかさ上げする工事がたまたま今年春に完成し被害が少なかったのだ。地盤沈下もすべてが均一に沈むのではない。ビルの水平を保つためジャッキアップで鉄板を挟む工事も進める。
さて、衝突したタンカーは決して大型ではない。連絡橋がある程度損傷するのはわかるが、三車線は完全にジョイント部分がずれてしまっている。改めて、「連絡橋はその程度の強度だったのか」と思わざるを得ない。
関空からすればいわば「身内の船」にやられたようなものだった。航空機のジェット燃料を供給し終えて軽くなっていた船体は、風対策で喫水線を下げるために水を入れたりするが今回、喫水線はかなり低かったようだ。
5日は西宮市や神戸市の被害を取材していたが、甲子園浜から鳴尾浜へつながり、高速道湾岸線と並行する海上道路は通行止め。警備の人は「高潮でジョイントがずれたんや」。タンカーがぶつかったわけでもない。高潮が当たってそんなことになるのか。ここでも「海上道路とは相当ちゃちなものではないか。南海トラフ大震災や津波に耐えるのか」と疑問が湧いた。もし南海トラフ大震災が起これば、関空は壊滅的な被害を受けると専門家たちも指摘する。
●「大阪湾湖」の危険
淡路島が蓋をしたような形の大阪湾は平均深度が30メートルと浅い上、兵庫県の明石海峡は狭く、和歌山県と淡路島間の紀淡海峡も島が多く浅い。ある意味「湖」ともいえる。このため大量の海水が流れ込むと潮位が高いままになる。
関西で大被害を出した台風として1934年に約3000人の犠牲を出した室戸台風、約200人が死亡した1961年の第二室戸台風がある。今回と共通するのは四国東部に上陸して神戸に再上陸したこと。台風の目の数十キロ右、つまり東側の風が強まり大阪湾沿岸に被害が広がる。「第三室戸台風」ともいえる21号台風に津波に劣らぬ高潮の恐怖を実感した。
(文=粟野仁雄/ジャーナリスト)