数ある医療過誤のなかでも、独特の悲惨さを帯びるのが、新生児の取り違えだ。DNA鑑定が比較的簡易になった現在、半世紀前の新生児取り違えが発覚することが多い。
今年になって報じられた、順天堂大学医学部附属順天堂医院での新生児取り違え事件が起こったのは51年前。2013年に東京地方裁判所で賛育会病院に賠償命令が出た新生児取り違えは、その60年前。06年に東京高等裁判所が東京都に賠償を命じた、東京都立墨田産院(閉鎖)で起きた取り違え事件に本人が気づいたのは、46歳の時だった。
人生の大半を過ごしてきてから、育ててくれたのが実の親ではない、血がつながっていないとわかる。そのショックは計りしれない。
賛育会病院に関する地裁判決は、「出生とほぼ同時に生き別れた両親はすでに死亡していて、本当の両親との交流を永遠に絶たれてしまった男性の無念の思いは大きい」と述べ、墨田産院に関する高裁判決は「取り違えは産院の基本的過誤で、原告は重大な過失で人生を狂わされた」と述べた。
医学における教育改革にも取り組み、ハイクラス家庭教師MEDUCATEを運営する細井龍医師から新生児の取り違え問題について聞いた。
こうした新生児の取り違えは、よく起こるものなのだろうか。
「現在ではほとんど起こり得ないでしょう。乳児が生まれたら、体を拭いたりする前に、何よりも先に個人認証バーコードの入ったバンドを付けます。母親がつけているリストバンドと同一になっており、バーコードで親子が認証できるようになっています。保育器も赤ちゃんと1対1で対応するようになっていて取り違いが起こらないように対策されています。」
順天堂によれば、当時は沐浴後に新生児の足裏に母親の名前を記すという方法が取られていて、その際に取り違えが起きたと考えられるとのことだ。
「助産師だけで運営している地方の助産所などでも、相当気をつけていらっしゃるとは思いますが、個人認証バーコードや電子カルテシステムがない場合も多いと思うので、起こる可能性は0ではないと思います。ヒューマンエラー、すなわち人間はみなミスをするという前提の下でシステム構築をしていかなければならないという事です。順天堂大学レベルの大病院ではまず取り違いは起きないとは言えますが、誰も0%とは言い切れません」
1973年の日本法医学会の学会誌には、1957年から1971年の間に32件の取り違えが起きていたという調査結果が報告されている。報告されていなかったり当人が気づいていないケースを考えると、500件ほどにはなるのではないかという記載もある。
「この時代の取り違えの多さは、ベビーブームの影響もあるでしょうね。子どもの生まれる数の多さに対して、人手が足りない状況というのは、ヒューマンエラーが起こりやすい。また、新生児の取り違えだけでなく、昔は医療過誤も多かった。手術で健全なほうの肺を取ってしまった、乳房を取ってしまったというようなことも話題になりました。今は病棟看護師、手術室看護師が、何度も手術部位を確認するプロトコールを通過した上で、手術執刀直前に、タイムアウトといって、1回、関わるスタッフが全員手を止めて、患者ご本人のお名前と画像と照らし合わせて、術式、腫瘍の左右、位置を画像も交えて確認します。
●個人情報保護の観点
時間がたってから発覚するのが、新生児の取り違えの際だった悲劇だ。今年発表された順天堂のケースでは、本人が小学校入学の際の健康診断で、両親からは生まれない血液型だとわかったことが発端。取り違えを疑った母親に対して、順天堂は「あなたが浮気したんじゃないですか?」と問い返したという。
「血液型で親子関係が疑われる場合、その原因が浮気だというのは、実際にあることです。現代のシステム化された病院であれば、取り違えよりは、浮気であるほうが確率的には高いかもしれない。当時は順天堂大学病院も取り違えが起こるわけないと思い込んでいた部分はあるでしょう。実際に違うお父さんの子供だったという事例はあるわけですから。今回のように、浮気を疑ったという部分だけ雑に取り上げられると、あたかも患者に対して不躾な対応をしたかのように見えてしまいますけど、現病歴として婚外交渉があったのかどうかは確認する必要はあると思います」
結局はDNA鑑定によって本人と母親に血のつながりがないことがわかり、順天堂は取り違えであることを認めた。本人は実の母を知りたいと求めたが、順天堂側はそれを拒否。順天堂によれば、50年以上が経過した後に知らせることによって、現在の母親の平穏な生活を乱し、取り返しのつかないことになるのではないかと考えたという。
「本当のお母さんを知りたいという本人の思いはわかりますが、医師の立場からすると、そのお母さん側からも「私も本当の息子を知りたい」という同意がない限り、守秘義務により、教えられないというのは、当然だと思います」-
刑法第134条には「医師、薬剤師、医薬品販売業者、助産師、弁護士、弁護人、公証人又はこれらの職にあった者が、正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたときは、6カ月以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する」と記されている。
「伝えられているところだと、学長以下での議論では、母親の情報を伝えるという方針だったのが、理事長の意向でやはり伝えられないと覆ったということですね。順天堂のスタッフに聞くと、理事長に権限が集中しているというのは間違いないです。教授や学長の“上”にいる存在なので、その人に裁量権が集中しているのでしょう。
ただ理事長の鶴の一声で覆ったかというと、学長だって個人情報保護の原則は知っているはずです。ここからは推測ですが、相手側(本当のお赤さん)にアプローチして、上手く対面する方向にむかっていたけど、それが破談になってしまったというの実情ではないでしょうか。52歳の息子さんのお母さんだとすると、若くても70代後半くらいです。その年齢でいきなり『本当の息子』が現れても、人生50年、取り違えられたお子さんを本当の息子さんだと思って生きてきて、いきなり違うと言われても、すんなり状況を受け入れることはできないでしょう。既にお孫さんもいる可能性もあります。それまでの人生を否定しなければいけない事実を70代後半で知りたいかというと、知らないという選択肢をとる人も多いでしょう。
病院側は、いきなりそのお母さんに『あなたの息子さんは本当の子どもではない』とは言えないので、極めてデリケートなアプローチをしているはずです。それがどこかで壁に突き当たって跳ね返されたということではないでしょうか。もともとは病院の過失ではあるけれど、そのお母さんの過失ではないし、むしろ被害者でもあるわけだから、そちらの気持ちも尊重せざるを得ないでしょう」
順天堂によれば、この問題についてはさまざまな考え方があり得ると思料し、専門家の意見も参考にして結論を出したとのことだ。
「ちなみに順天堂医院のスタッフに聞いたところ、今回のことで現場への影響はまったくないようです。『どうなっているの?』と患者さんに聞かれるくらいとのことです。取り違えの再発防止についてはほぼ万全だし、本当に上層部だけで動いていた一件ということです」
●「親の情報を開示すること」を命じる法律がない
法的な立場からは、弁護士法人ALG&Associates執行役員・弁護士の山岸純氏(リンク貼る https://souzoku.avance-lg.com/ )から以下の回答を得た。
【山岸氏のコメント】
日本において、「新生児取り違え」に関し、取り違えられた「子ども(被害者)」が病院に対し損害賠償請求訴訟を提起した事例はいくつかありますが、これまで、取り違えられた「子ども(被害者)」が病院に対し実の親の情報の開示を請求して訴訟になった事例はないようです。直接的な理由は、「親の情報を開示すること」を病院等に命じる内容の法律がないということが挙げられます。
これに対し、ニュージーランドなど一部の外国においては、養子や生殖補助医療で生まれた子どもに実親を知る権利を法律で認めていることもあります。
もっとも、日本ではそうした法制度は存在しないものの、憲法13条で保障されると考えられているプライバシー権に基づき請求することが考えられます。
すなわち、「プライバシー権」とは「自分の情報をコントロールする権利」と解されているところ、実親という自己の出自にかかわる情報の開示を要求する権利も、この「プライバシー権」に含まれていると考えることができます。
もっとも、憲法は国家に対する国民の権利を保障するものであるため、国立病院の場合はともかく、今回の順天堂のような私立病院の場合には、憲法の規定を理由に要求することはできません。そのため、一般的には「人格権」という私法上の権利に基づき請求することになると思われます。
ただし、養子や生殖医療の場合と異なり、取り違えの場合は病院も取り違えられた可能性がある新生児の両親の特定まではできても、実親そのものの特定まではできない場合があると考えられます。
その場合、実親以外の無関係の第三者の出生情報についても取り違えの被害者に開示する必要が出てくるため、こうした第三者とのプライバシーとの衝突の問題も生じてきます。
現に、こうした取り違えの事例で取り違えの「子ども(被害者)」が自らの出生日時に出生した者の戸籍開示を情報公開条例に基づき墨田区に求めた事例がありますが、墨田区は個人情報として公開しない決定をしています(東京地裁平成17年5月27日判決参照)。
こうした事情等も踏まえますと、現状の日本の法制度上は病院に対し、実親と思われる家族の情報公開を求める権利までは認められづらいのではないかと考えられます。
【コメント終わり】
法的な観点からも、いくら生物学上の親であっても、当人の了承なしには息子がその情報を得ることはできないのだ。当人にとっては、なんともやりきれないことだろう。このような不幸が二度と起こらないよう、最善を尽くしてほしい。
(文=深笛義也/ライター)