田端駅は東京北区にある山手線の駅だ。ここでは山手線のほかに京浜東北線も発着している。

田端~品川間では山手線と京浜東北線が並んで走るのだ。

 2系統の電車が発着するので駅の利用者も多そうだが、実は山手線29駅のなかでは下から3番目(2017年度現在)。ちなみに2017年度の田端駅1日平均乗車人員は、定期外2万214人、定期2万6,819人で、合計4万7,034人。これはJR東日本全駅で比べてみるとちょうど100位。2016年度に比べて微増傾向にあるが、大体このあたりにランク付けされている。

 なんだか地味な存在の駅に思えてくるが、鉄道としてはなかなか重要な役割を担ってきた歴史がある。

 駅の誕生は1896(明治29)年4月1日。当時、山手線は開通前で、現在の東北本線に相当する路線の駅だった。当時の運営は私鉄の日本鉄道で、田端駅も日本鉄道の駅となっていたのである。

 日本鉄道は1883(明治16)年7月28日に上野~熊谷間で開業、その後、路線を拡張していく。その拡張路線のひとつとして現在の常磐線に相当する路線も計画された。この時代、茨城県から福島県にかけて沿岸部に広がる常磐炭田の開発が進み、掘り出した石炭を首都圏に運ぶルートが求められた。
当初は海上交通に頼っていたが、鉄道ができれば消費地まで効率的に運べるのである。

 この時、東京側の起点として選ばれたのが田端の地だ。田端は山手台地の東部に位置し、江戸時代から寺社の多いところだった。ただし、線路が通じているのは崖下の平野部で、当時は田園地帯となっていた。地名にしても田んぼの端に位置するという意味が込められているという。

 当時、上野の次の駅は王子となっていたが、新たに田端駅を設置、新線の分岐拠点として整備することになったのだ。田端駅開設からおよそ9カ月後の12月25日、常磐線の前身となる土浦線として田端~土浦間が開通している。

 土浦線は田端駅の上野側で分岐するかたちに敷設された。貨物輸送にはこれで事足りたが、上野発着の旅客列車は田端駅で進行方向を変えて進まねばならない。運転上、手間がかかるため、1905(明治38)年には日暮里~三河島間に短絡線を建設、旅客列車はこちらを経由して上野駅から直接発着できるように改められた。これで現在に通じる常磐線の外郭が整ったのだ。

 また、日本鉄道では田端~池袋間を結ぶ豊島線の建設も進め、これは1903(明治36)年4月1日に開通している。
これは現在の山手線の前身となる路線だが、田端駅に結ぶことで品川、そして横浜方面への貨物ルートを完成させたのである。

●山手線の環状運転が始まるまで

 こうして田端駅は貨物輸送の重要拠点となり、その発着作業も繁忙になっていく。

 当時の貨物輸送は、目的地別に貨車に荷物を搭載、その貨車を仕分けして運ぶ方式が基本となっていた。そのため、中継地点では貨車の組み替えが必須となる。田端駅の場合、山手・東北・常磐方面相互の連絡駅として多くの貨車が集まり、明治末期には1日1,000両以上の貨車を扱っていたという。これは当時の田端駅の設備では限界に近い状態だった。

 1906(明治39)年11月1日、日本鉄道は国有化され、田端は国鉄の駅となった。その後、速やかに着手されたのが田端駅の改良である。貨車を効率的に組み替えられるよう、操車場が設けられることになったのだ。

 田端駅に隣接して長さ2.6km、幅約300m、面積にして東京ドーム6個以上になる用地が確保され、貨車の操車場が建設された。ここでは貨車仕分けの作業を効率的に行える日本初のハンプ線(構内に勾配を設け、貨車を自走させて仕分ける施設)も導入され、1917(大正6)年3月に竣工している。これで貨車の処理能力は1日あたり約1,600両に拡大された。


 田端駅をめぐる改良工事はさらに続く。貨車の操車場に続いて客車の操車場も必要になってきた。増大する輸送量により、上野駅に併設されていた客車留置施設が手狭になってきた。上野駅の改良に合わせて新設移転することになったのだ。

 これは田端操車場の東側に東京ドームおよそ5.5個分の用地が確保され、1924(大正13)年から貝塚信号場として一部の運用が始まった。その後も整備が続き、1929(昭和4)年6月には尾久客車区として完成している。

 この時、東北本線は客車区を経由するルートも設けられ、さらに客車区のわきには尾久駅も設置された。以後、東北本線の旅客列車はこのルートで運転されるようになる。

 こうした改変に並行して、現在の山手線や京浜東北線に相当する電車運転も始まった。田端駅関連で見ていくと、まず1909(明治42)年12月16日、上野~田端~新宿~品川~烏森(現・新橋)間で山手線の電車運転が始まった。当時の山手線は環状運転ではなく、C字形の路線を往復するスタイルだった。1925(大正15)年11月1日には環状ルートが完成、現在に続く山手線の環状運転が始まった。


 さらに京浜東北線の前身となる京浜線も運転区間が北上してくる。1928(昭和3)年2月1日には田端~赤羽間の電化が完成、桜木町~赤羽間で運転されるようになった。

 こうして田端駅周辺の鉄道施設が拡張されていくなか、田端の街も広がっていく。そのなかで問題となったのは、広大な鉄道用地に分断されて台地と平地の往来が困難になったことである。そこで1935(昭和10)年には田端駅のわきに線路を跨ぐ「田端大橋」が架設された。これでスムースな行き来ができるようになった。

●東京新幹線車両センター、田端大橋

 時代が大きく飛び、国鉄晩年の1984(昭和59)年。国鉄の貨物輸送体系が大改変される。操車場を経由する貨物列車運行を全廃、拠点間を往復するスタイルに改められたのだ。
 
 田端操車場もこの改変のなか、大きく姿を変えていく。この輸送体系改変で操車場機能が不要になった。しかし、貨物列車そのものがなくなるわけではなく、貨物列車運転に最低限必要な設備を残し再開発が進められていく。


 現在、田端駅のわきを高架線で駆け抜ける東北・上越新幹線は、当初、大宮駅発着で運転を開始した。その後、1985(昭和60)年3月14日には上野~大宮間も完成、上野駅発着の運転となった。この開業に合わせて貨車の操車場は新幹線の車両基地に衣替えされたのである。これが現在の東京新幹線車両センターだ。

 田端駅の山手線ホームなどから車庫に出入りする新幹線の姿も見えるが、さらにその奥には貨物列車も発着している。すでに貨物の取り扱いはなく、運転上の発着扱いだけ。駅名も2011(平成23)年3月から田端信号場駅となっている。

 なお、田端駅の象徴のひとつだった「田端大橋」は老朽化のため、1987(昭和62)年「新田端大橋」に架け替えられた。当初、旧「田端大橋」は撤去される予定だったが、歴史的および技術的観点から保存活用が決まり、現在では人道の「田端ふれあい橋」となっている。ここには新幹線などのモニュメントも設置され、田端駅を取り巻く鉄道の歴史を伝えてくれるのだ。
(文=松本典久/鉄道ジャーナリスト)

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