■晴海に移転する「幻の東京都庁」計画
現在、壁面を利用したプロジェクションマッピングが開催されたり、観光地化している東京都庁。展望室は外国人観光客にも人気で、平日には直通エレベーターが大行列。時には40分以上待つこともあるという。
そんな都庁が、新宿の現在地に移転したのは1991年のことである。1943年の都政施行以来(さらに辿れば1894年以来)、ずっと有楽町にあった都庁の移転は、高層ビル建設が進み副都心となった新宿の地位を一段と高めることとなった。
かつての東京では郊外だった新宿の副都心としての地位はここに完成したのである。これが行政機構の中心施設が持つ力といえるだろう。
しかし、実は東京市庁(のちの都庁)の移転問題は、これが初めてではなかった。時をさかのぼること約半世紀前、昭和初期の東京では、市庁舎を当時開発されたばかりの埋立地・月島四号地(現在の晴海)へ移転する計画が真剣に議論されていたのだ。
かつては東京万博の予定地となり、現在では湾岸エリアの一角として注目を集める晴海(詳細は前回記事:36年前に廃線になった「幻の鉄道・晴海線」は今どうなっているのか…晴海フラッグが「孤島タワマン」化したワケ)。そんな地域への移転という先見性のある計画が実現しなかったのはなぜか。
■“庁舎問題は”100年以上前から存在した
東京市庁舎の使い勝手の悪さは、既に大正時代から問題となっていた。
東京市は、1889年に当時の東京15区を区域として成立したのが始まりだ。当初の東京市は一般の市制と異なり東京府知事および府書記官が市長を兼任し、市役所も市の職員もいない特殊な形で始まっている。この制度は1898年に変更され、新たに独立した東京市を設け、市長は市会が推薦した中から政府が任命するものとなった。
こうして独立した自治体となった東京市であるが、発足の経緯もあり市庁舎は府庁舎の内部に間借りするという形になった(※1)。
しかし、その後、東京市の人口増により市役所業務は徐々に拡大していく。結果、当初の間借りした部分は手狭になり、府庁舎の周囲はもちろん、離れた場所に次々と分庁舎を建てて対応することになった(※2)。
用があって訪ねて来てみれば、その部署は離れた場所にある別の建物というのは、明らかに非効率である。
こうした経緯もあり、大正前半には市庁舎の新築による統合は、かなり具体的にな話になっている。『東京朝日新聞』1917年7月23日付朝刊の記事「敷地探し 新築すべき東京市庁舎」では「市庁の新築敷地は芝公園と云う説もあるけれど地盤が悪いからだめである」として、大手町憲兵隊の土地(現在の丸の内消防署付近)が適地とする方向性が固まりつつあるものの十分な敷地の獲得が困難であることも指摘している(※3)。
ここは現在でも、日本経済新聞や三井物産の本社ビルに隣接する皇居の濠に面した一等地。当時も同様なので、市庁であっても交渉は困難だし、購入費用も相当かかるだろうと匂わせているのだ。
※1 https://www.tokyo-23city.or.jp/jigyo/kikaku/tenji/r_03/documents/02-09.pdf
※2 https://www.tokyo-23city.or.jp/jigyo/kikaku/tenji/r_03/documents/02-10.pdf
※3 「大手町憲兵隊のある場所も宜い所だと思うが、何分便利の宜い敷地を得るには困難である。」
■「大手町にほぼ決定」と報じられたが…
この時点では、手狭なので早々に移転先を決めるべきだという、まだ漠然とした議論に過ぎなかったが、数年後にはいよいよ切羽詰まった問題になっている。『東京朝日新聞』1922年10月28日付朝刊では「手狭の市庁間に合せ(ママ)に増築の計画」では、多くの部局が別々の建物で業務を行っているため、非効率であるばかりか無駄に経費がかかっていることを問題視している(※4)。
とにかく、庁舎が分散して不便なばかりか、賃貸等で余計な費用がかかるばかりなので、一刻も早く移転先を決めるべきという方向性は誰もが共有していた。これに対して、東京市でも移転先探しは急いでいたらしく『東京朝日新聞』1924年11月20日付朝刊には「市庁舎移転大手町にほぼ決定」という記事が掲載されている。ここでは、前述の憲兵隊の敷地及び、周辺の内務省、宮内省所有地の譲り渡しと換地の提供の交渉が成功し年明けにも決定すると報じている(※5)。
※4 「府庁の一部を間借りしている東京市役所はその後益益狭隘を告げ電気、道路、社会の三局を初め、学務、衛生、公園、河港、調査の各課はいづれも別の建物で事務を執っているため非常に不便を感じている。(中略)来年度からは少なくとも五百坪乃至一千坪の貸事務所でも借りなければならない程事情は切迫している。それでこの間代を坪一箇月十円として一千坪ならば一箇年十二万円を支払うことになる。」
※5 「価格問題で目下折衝中であるが早ければ本年末遅れても明年初めには万事の決定を見る筈である。」
■話は拗れに拗れた
ところが、翌年になっても決定はしなかった。むしろ、話は余計に拗れ始めた。この時、問題となったのは内務省の要求した換地である。東京市と内務省では内務省の所有地、2600坪を譲り受ける条件として換地の提供を求められていた。
そこで、東京市では溜池(正確には赤坂区葵町、現在の港区赤坂1丁目)(※6)にあった東伏見宮邸跡地(1万1000坪)と見つけて、交渉、これを内務省に換地として提供することにした。
これによって、話はさらに拗れてしまう。内務省の主張は、移転元の土地と同等の価値の土地を受け取らなければ資産が目減りするというものだった。だが、一部はすでに逓信省の移転先として確保されていたので、この主張は通らない。
そこで、東京市は減った5000坪分を金銭で支払うことにしたのだが、内務省は金銭で受けとった場合には国の収入として大蔵省が管理することになるため拒否したのだ。結果として、市庁舎の移転計画は、目的地の調整ではなく、官庁間の縄張り争いに発展してしまったのである(※8)。
そして、この後も迷走は続き、幾度も「移転先決定」が報じられながら、まったく決まらなかった(※9)。
※6 https://adeac.jp/minato-city-kyouiku/texthtml/d100010/mp100010/ht100170
※7 東京朝日新聞 1925年1月22日付朝刊
※8 『東京朝日新聞』1925年5月9日付朝刊「また引っかかった市庁舎敷地問題 大蔵省へ直接交渉の方針」「内務省では其後道二町の三千二百坪を坪八百円東伏見宮邸跡は坪二百円と見積もって道二町の価格に等しい土地をもらわねばならぬと頑張り始めたために交渉に停頓を来している次第で若し内務省の主張通りにすれば東伏見宮邸の残りの五千坪も渡さねばならぬことになるが残りの部分は逓信省が移転することになっている内務省が斯く主張をなすのは東伏見宮跡五千坪の残りを金で受け取ると其金が大蔵省の手に入り内務省の所有財産が減ずるとを嫌う為らしく(以下略)」
※9 『東京朝日新聞』1926年8月17日付朝刊「市庁舎敷地やっと見つかる」「新場所を研究した結果、現在の印刷局(注:現在の大手町仲通りの西側)に広い空地があり市庁舎の建設に充分なのでここを譲り受けることになり、いまの水道、社会両局の敷地八千坪を売れば約1500万円の新舎建築費が得られるので、この話がまとまれば今年度の予算に編入して直に建築工事を着し立退きが迫った社会、水道両局がまづ移ることになる。」
『東京朝日新聞』1927年8月30日付朝刊「八階建になる新東京市庁 有楽町の濠沿いに一千万円で来年から起工」「最初は憲兵隊の跡をねらい、続いては印刷局跡を物色したがいづれも地価の点でまとまらず、結局現在の道路、水道局や保険局のある場所即ち有楽町一丁目の濠沿と省線との間の細長い地所幅四十間長さ百三十間の地所が約五千坪あるので、ここに建築する事になり、勝助役から市参事会の了解を得た。」
『東京朝日新聞』1928年9月21日付朝刊「市庁舎の敷地日比谷に執着」「第一候補を日比谷公園内西北隅五千坪としてこれが換地として現水道局構内敷地を提供して公園的施設をなす。(中略)外に目下公園内東南隅に工事中の市政調査会館の落成を待ってこれを買収し更にその隣接地に増築をなしては如何との議も出て居る。」
■「月島四号地」(晴海)案が急浮上
こうした中で、ついに事態は大きく動き出す。1932年10月、東京市は市域を拡大し35区となる。翌1933年5月、牛塚虎太郎が東京市長に着任する。新市長として、市庁舎移転問題は、解決すべき課題の一つであった。
なおも、意見は錯綜していたが移転先は大手町の憲兵隊跡地に一本化することで話はまとまりつつあった。1933年9月には市会の市庁舎建設委員会理事会が憲兵隊跡地の払い下げを求めることで一致、これの交渉を開始することとなった(※10)。
ところが、同年10月27日の市会で事態は一変する。議事進行中、牛塚は突如、緊急動議を提案、市庁舎移転先を月島四号地(現在の晴海)とすることを提案する。よっぽど事前の根回しが行われていたのか、この動議はその日のうちに賛成多数で可決されてしまった。
これは、誰も予想していなかった事態である。この時点で、完成したばかりの埋立地である月島四号地(晴海の町名は1937年から)は、未開発の荒れ地である。筆者が調査した限りでも、月島への移転案は『東京朝日新聞』1931年5月29日付朝刊で、土木局内にはそういう意見もあると触れられている程度。すなわち、誰にとっても寝耳に水のことだった。
※10 東京朝日新聞 1933年9月12日付朝刊
■新しい都心を創造する“壮大な構想”
当然、すぐに反対運動も激化。1933年11月には、麹町区を中心に麻布、四谷、牛込、淀橋、中野、王子、城東の各区で「東京市庁舎月島移転反対各区連合会」が組織され各区で区民大会や演説会が繰り広げられた。一方、牛塚はこれを意に介せず、12月に地鎮祭を開くことを決め準備を進めていた(※11)。
この時点で、牛塚が示していた計画はどのようなものだったのか。『東京朝日新聞』1933年12月1日付朝刊には、その概要が示されている。
設計によると市庁舎敷地は四号埋立地の中央部に三万二千坪をとり七千坪に地下一階、地上六階の大庁舎を建築、全面と背面に広場を設け南に面した庁舎正面前には帝都を褒章する大記念塔を建てる。背面広場は増築の予定地と庁舎をめぐる東南一帯は商業地、臨港地帯は港湾施設地帯とて(ママ)倉庫等を建設する予定で、新庁舎は日比谷から歌舞伎座前を鬨の渡(ママ 勝ち鬨の渡し)に至る直線の大通りを可動橋で月島に結び、現在の黎明橋を鉄骨に架け替えそこから一直線に伸びる幅員二十七メートルの道路と新月島を西南から東北に横断する幅員三十六メートル道路とを交差するところに位置し将来市電バスの便を持つと同時に新宿から築地に至る地下鉄道を延長庁舎前から洲崎方面に敷設するほか、汐留又は新橋駅から省線をも延長して交通状態を便利にし、市庁舎を名実ともに市埋立地開設の中心となす予定。
ここからわかるのは、月島四号地への市庁舎移転が、単なる役所の引っ越しではなかったということだ。背面に拡張を想定した用地を確保していたことからも明らかなように、市庁舎を核として、新たな都心を創造する壮大な構想だったのである。
※11 東京朝日新聞 1933年11月17日付朝刊
■「板橋からだと車で2時間以上かかる」と猛批判
しかも、鉄道、地下鉄、道路といった交通インフラを整備して人の流れを集中させ、銀座や新橋と埋立地を一体化した新たな都市空間を築こうとしていた。月島四号地移転計画とは、まさに帝都改造の中核をなす一大プロジェクトだったのである。
そうした夢のある計画にも拘わらず、反対の声は日増しに拡大していった。1933年12月に建築学会が提出した意見書では、反対の理由が次のようにまとめられている(※12)。
1:月島埋立地はその位置が市民活動の中心より著しく偏在し又その連絡交通機関の点で不自然である。
2:月島では仮令庁舎の規模結構並びに施設の上に最善を尽くすもなお庁舎たるの真使命を恐らく永久に果たし得ない。
3:市庁舎敷地は丸之内方面に求むるは常理でその実現は困難としても当局の熱誠な尽力によってこの方面に敷地を選定されん事を切望す
4:右の根本方針を一挙に放棄し月島埋立地の如き交通的にも都市計画上その適性を見出し得ぬ地区に急ぎ決定したのは帝都百年の大計をたつる上に真に遺憾である。
この建築学会の反対意見からもわかるように、月島四号地への移転反対論には、開発もままならない埋立地に市庁舎を移転することへの感情的な抵抗感が色濃くにじんでいた。
そして、こうした感情論に理屈を付けたような反対意見は、当時の市議会でも広がっていた。例えば、1935年9月の市議会で、桑原信助市議は次のように述べている。
「市長は百年の大計というが、木更津あたりまで埋め立てない限り向こう100年どころか300年経っても月島が東京の中心になることはあり得ない」
「月島は検疫所や税関を設置して玄関になるかも知れないが、東京の中心にはならない」「板橋からだと車で2時間以上かかるところにある市庁舎がどうして〈吾ラノ殿堂〉になるのか」
※12 東京朝日新聞 1933年12月28日付朝刊
■「庁舎の設計案」も決まっていたが…
桑原は戦後には都議会議長も務めた人物である。そんな人物が「板橋からだと車で2時間以上かかる」と、遠いことを反対理由として挙げていれば納得してしまいそうだが、この人物は神田区選出の議員。すなわち、月島四号地への感情的な反対に理屈を取って付けただけのように思える。
ともあれ、反対論は日増しに盛り上がり1934年3月2日には衆議院の5大都市特別市政法案委員会で取り上げられ内務大臣・山本達雄が「市政の中心たるべき市庁舎の建設についてはその土地の位置、品位並に市民の輿論、都市の美観等を充分に考慮する必要があり」と、最高を促す意見を述べる場面もあった(※13)。
時の内務大臣まで反対論に傾く中で、計画は粛々と進められた。1934年6月には以前より実施されていた1等賞金1万円の建築設計コンペが決まり、31歳の建築家・宮地二郎が1等に選ばれている(※14)。宮地の設計案は6階建て総面積6万8000平方メートルの白亜の建物で、導線設計が極めて優れたものであった。
しかし、それでも月島四号地には「東京市庁舎建築敷地」の看板が建っただけでなんら進展を見なかった。この停滞は、当時の東京市の赤字状況と共に、反対派が市長を攻撃する材料となっていた。『東京朝日新聞』1934年8月29日付夕刊では、市長の排斥論が高まっていることに対して牛塚にコメントを求めているが、牛塚はついに「自分はすき好んで市長になったわけではないから……」とまでこぼしている。
※13 『東京朝日新聞』1934年3月3日付朝刊
※14 https://dl.ndl.go.jp/pid/1259302/1/5
■東京五輪開催で、再び勢いづく
この年の秋には、市庁舎の建設財源となるはずだった月島四号地の都有地売却が難行していることも話題になり、計画は無期延期ではないかという観測も出てくるようになった(※15)。翌1935年は、まれに新聞で一向に建築計画が進まないことに触れる記事が出る程度で、進展はないままに過ぎた計画だが、1936年秋になり急に事態は進展する。
突如として、市会で改めて多くの議員が月島移転に賛成することを決めたのである。
『東京朝日新聞』1936年10月14日付夕刊「市会は全面的に月島案を支持す」では、こう報じている。
一般輿論の全面的反対の中に市会の市庁舎月島案賛成調印者は益益増加して百五名に及び、市庁舎建設実行委員理事会は二十八日午後二時に開催することになった。
背景には、同年7月に東京が1940年オリンピックの開催地に決定したことがあった。これにより、都市インフラ整備の気運が高まり、月島移転案も再び現実味を帯びたのである。
実際、中央区立京橋図書館所蔵の矢田英夫(当時市会議員、戦後も都議を務める)の寄贈資料をみると、1934年7月の時点では京橋区・深川区・城東区のみの参加だった「市庁舎月島建築促進各区連合会」が、1937年2月には12区に拡大している。
鉛筆で書き込まれた「○×△」「賛」「反」などの記号を見る限り、この頃には明確な反対派は減り、態度保留組も出始めていたことがわかる。
※15 『東京朝日新聞』1934年10月18日付朝刊「月島の市庁舎 市会も愛想づかし いつ建つ事やら無期延期で越年か」「七百八十万円の財源は市の基本財産から六百万円(内四百五十万円は水道基金)百八十万円は埋立地売り払い代という名目になっているが、まだ一向買い手のつかぬ土地の売り払い代を見込むところに不安があり、更にこの建築感性は三カ年継続事業となっているものの十一月市会に提案、仮り(ママ)に可決されても、僅二年四ヶ月の短日月であれだけの市庁舎大工事は事実上困難視されている。」
■市会改選で「月島(晴海)案」が消滅
だが、月島案をめぐる議論は市会でも激しく対立した。
1937年2月24日の任期満了にともなう市会議員選挙告示(投票日は3月16日)を前に、流会するかと思われた市庁舎予算委員会は選挙中も継続審議を続行。月島案反対派が抗議のために委員を辞したりする混乱の中で、3月2日に月島案賛成派議員のみの出席で、市庁舎月島建設予算案の可決に至ったのである。
この強行採決により市会はさらに混乱し、事態は膠着状態に陥る。出席議員のみによる採決が有効とされれば本会議を11日までに開く必要があったが、対立が深まる中で本会議開催は不可能であった。結局、市長を含めた両派は協議の上で「この時期に拙速な決定は避けるべき」と判断し、新市会の成立後に慎重審議することで合意し、結局、この予算案は本会議にかけられることなく、3月16日の市会改選を迎えて自然消滅することになった(※16)。
これが、月島案消滅の決定打となった。
賛成派が可決を急いだ背景には、選挙後の5月に牛塚市長が退任することが決まっていた事情がある。月島四号地への市庁舎移転計画は、もともと牛塚虎太郎市長個人のビジョンと推進力によって推し進められたものであり、組織的な基盤を欠いていた。
確かに、東京オリンピック招致という外部要因によって一時的に賛成の機運は高まったが、あくまでも牛塚の旗振りに乗ったに過ぎなかった。そのため、在任中に予算案を成立させて月島移転を確定させることを狙ったものの、果たせずに終わったのである。
※16 市庁舎月島建設反対各区聯合会『市庁舎月島建設反対運動誌』(1938年)「若し三月二日の月島賛成派委員のみの委員会の決定が有効とすれば本会開会の請求が同日委員会より提出せられている以上遅くとも十一日までに本会議の必要あることとて極度の困難に逢着した市会はともあれ事態の収拾を緊急事とせられたが、漸く三月八日後前市長室に各派交渉会を開き協議の結果、斯る重要案件を早急に決定すべき時期ではないとして、取敢ず(ママ)市長と各派交渉議員とが夫々責任を以て本会議開会請求書の撤回をすすめ新市会の成立を俟って慎重審議することを申合わせて午後一時散会し、かくて市庁舎月島建設予算案は、賛成派委員18名の委員会の法律効果の有無の疑問を残したまま、遂に市会本会議の脚光を浴びることなく、十六日の市会改選期に到達し、ここに完全に葬り去られるに至った。」
■議会と自治を優先した東京市長
こうして、牛塚市長自身も、議会の混乱と月島案に対する市会の反発を前に、移転計画の断念を受け入れざるを得なくなった。
3月12日、牛塚は各派議員に宛てた文章の中で、市会の法規や慣例を尊重し、市民自治の原則を守るべきであるとの考えを示している。
市会の最も尊重すべき法規慣例なり従って小案件と雖も、過去、現在、将来を体験して処理せざるべからず、いはんや重要案件に至っては将来に亙る先例的観点より慎重の考慮を払って常に議会政治の大義名分を但し、紛争を排除し議事の進展を期せるべからず、仮にも市会の職責を曠廃し、市民の負託に反し、貴重なる審議権を放棄し、ために自治の了解なく市民代表の資格なしなど軽率なる即断を被らしむるが如きは議員諸君に対して誠に忍びざる所なれば議長始め有力者に余の友情を伝えられたし。
(『市庁舎月島建設反対運動誌』)
ここには、自らが推し進めた月島移転計画への執着を超え、議会政治の原則を優先せざるを得なかった苦渋の思いがにじんでいる。議会と自治の原則を守るため、自ら推し進めた構想を引き下げた牛塚の態度には、政治家としての矜持が感じられる。
この後、1938年市会は改めて、大手町の内務省所有地を取得する話をまとめ、可決するに至った。なおも月島案に固執する議員からの反対意見はあったもものの、原案通りの可決となった(※17)。
新たに取得した大手町の面積は大きく、2万4000坪もあり月島案で決定した市庁舎よりもさらに巨大な市庁舎が建設されることが期待された(※18)。
※17 東京朝日新聞 1938年3月16日夕刊
※18 東京朝日新聞 1938年3月26日夕刊
■もし「東京市庁舎」が晴海にできていたら…
しかし、ついに市庁舎ができることはなかった。戦争の激化による資材高騰により計画案は進まなかった。そして1943年内務省は東京都制の施行を決定。ここに東京府と東京市の機能は一元化され、市役所庁舎の建設は不要になったのである。
行政機構は旧東京府庁舎に一元化されたが、この建物は1945年3月の東京大空襲で焼失。戦後、1957年に丹下健三設計による都庁舎が新たに建設され、新宿移転まで東京都の行政の中心を担うことになった。(※19)
もし、この時に市庁舎の移転が実現していたら、どうなっていただろう。
少なくとも、湾岸エリアの利便性はもっと高まっていたはずだ。
現状、晴海や有明といったエリアは交通インフラが貧弱なまま、タワーマンションだけが建ち並ぶ、都心に近い孤島となっている。鉄道網からは見捨てられ、地下鉄も近年になってようやく新線計画が動き出したばかりだ。
とりわけ晴海は、戦後に埠頭としての開発が進められたものの、移転してきた工場や倉庫の跡地が、無秩序なままタワーマンションだけが建ち並び、商業エリアも貧弱なバランスの悪い街になってしまった。
本来、都市の中心に準ずる機能を持つべきだったこの地は、都市計画の不在のまま場当たり的な開発に晒され、現在に至っているのである。
月島四号地への市庁舎移転計画が頓挫したことで、東京の湾岸開発は少なくとも50年、いや、もしかするとそれ以上の後れを取ったと言っても過言ではない。
いま目にする晴海の姿は、かつての壮大な都市ビジョンが挫折した、静かな敗北の風景なのかもしれない。
※19 https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/soumu/2572_0606dayori40
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)