オーケストラの楽器の名前を、どのくらい挙げられるでしょうか。

 まず、弦楽器、木管楽器、金管楽器、そこにサクソフォンやハープ、ピアノが入ってくることもあります。

そして、もちろん忘れてはいけないのは打楽器。特にフランス音楽などは打楽器が多く、10名近くの打楽器奏者が舞台の右から左までずらりと並ぶ曲もあります。変わったところでは、本物の大砲や銃まで使うオーケストラ音楽もあると言うと、皆様は冗談かと思われるでしょう。劇と音楽の融合であるオペラの中でも銃や大砲を使うことがありますが、実際には本物を使いません。

 さらに、本物の大砲や銃を使用する作品を作曲したのがベートーヴェンだと言えば、大変驚かれるかと思います。交響曲第5番『運命』や、年末の風物詩である『第9』を作曲した、あのベートーヴェンです。
曲名は、『ウェリントンの勝利』。通常のオーケストラ楽器以外に、「大砲2門以上、マスケット銃をできるだけたくさん」と指示があります。マスケット銃は、ナポレオン時代に使用されていた、ライフル銃の前身です。この曲の最初から、たくさんの銃声が鳴きます。

 ベートーヴェンがこんな奇想天外な作品を作曲したのは、1813年です。その前年にロシア遠征で決定的な敗走を喫したナポレオン率いるフランス軍が、英国のウェリントン将軍率いるイギリス・スペイン連合海軍にも大敗し、ナポレオンの快進撃がとうとう止まった年です。
このフランス敗戦のニュースは、ベートーヴェンが住んでいたオーストリアのウィーンにも瞬く間に伝わって、ウィーンの人々を歓喜させました。当時のウィーンは、ナポレオンの2度にわたる占拠により、極端なインフレと物資不足、そして急激な貨幣価値下落により、市民は窮地に苦しんでいたのです。そんなウィーン市民の歓喜に乗じて、ベートーヴェンもさっそくウェリントン将軍の名前を冠した『ウェリントンの勝利』を作曲し。その年の12月に早速初演されました。

 ところで、この日のコンサートでは、ドラマや映画にもなった人気漫画『のだめカンタービレ』(二ノ宮知子/講談社)で有名になった、『ベートーヴェン交響曲第7番』も初演されています。実は、この交響曲のメロディーのいくつかは、当時英国に併合されていたアイルランド民謡なのです。
この交響曲を作曲するにあたり、ベートーヴェンも英国音楽に対する興味だけで、ほかになんの意図もなかったし、そもそもこの交響曲を完成したのは数年前なのですが、観客は勝手に政治的意図を感じたとも思います。なぜなら、音楽で政治を刺激することは、ベートーヴェンの“もうひとつの顔”ともいえるからです。

●ナポレオンに憧れたベートーヴェン

 さて、『ウェリントンの勝利』では、銃砲の音だけでなくフランス民謡と英国国歌がそのまま入れ込んであります。つまり、英国がフランスを打ち破ったことが音楽上でもわかるように仕組んであるのです。コンサート後、聴衆は「オーストリア万歳! そして、英国万歳!」と、大騒ぎになったことでしょう。

 しかし、ベートーヴェンがフランス民謡くらいでとどめておいたことは、フランスに対して多少の礼を持っていたともいえます。
もっとひどいのは、チャイコフスキーです。彼は、大序曲『1812年』という、これもまた大砲がドンドン鳴り響く作品を作曲しています。現在、ほとんど演奏する機会が無い『ウェリントンの勝利』に比べて『1812年』は、現在でも頻繁に演奏されますし、僕も指揮をするのが大好きです。

 1812年という年は、ナポレオンのロシア敗走の年であることは先述しました。そんな歴史的出来事をテーマとしてチャイコフスキーは70年近く後に作曲したのですから、ロシア人にとってナポレオンに勝利したことは、まだまだ嬉しい出来事だったのでしょう。しかも、ベートーヴェンはフランス民謡くらいで済ませていたのに、チャイコフスキーは、なんとフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を入れ込み、その後に始まるロシア国歌(チャイコフスキー時代の帝政ロシア国歌)がフランス国歌を打ち消すことにより、勝利を表現し、最後は、本物の大砲によってロシア勝利の祝砲が鳴り響くという仕掛けです。


 ちなみに、世界のどこでも国歌斉唱の時には、相手の国歌にも敬意を持って起立して聴くことが習慣です。『1812年』のようにフランス国歌を侮辱する行為は、その国民を侮辱することにあたり、現在の国際社会では許されません。チャイコフスキーもひどいことをしたものですが、音楽が素晴らしいので、僕も片目をつぶって指揮する次第です。

 そんなこともあり、『1812年』はフランスでは演奏されづらいと聞いたことがあります。まあ、当然ですね。もちろん、『ウェリントンの勝利』もフランスでは演奏されづらいでしょう。


 他方、作曲した張本人である肝心のベートーヴェンの心中も、複雑だったかもしれません。というのは、彼はフランス革命に、ヨーロッパの理想像を見ていたからにほかなりません。

 ベートーヴェンが22歳でウィーンに移住する前まで住んでいた、生まれ故郷のドイツのボンは当時、啓蒙主義が盛んな都市で、青年時代の彼もどっぶりとこの新しい思想に浸かっていました。啓蒙主義とは、身分や生まれの違いを、人間の叡智によって乗り越えて、すべての人々が自由、博愛、平等という精神のもと生きるという考えですから、一般市民が王侯貴族を打ち破って共和国をつくり上げたフランスは、ベートーヴェンにとっては理想の国でもありました。

 しかも、平民出身のナポレオン(正式には、イタリア系の貴族の血を引く家系)が、旧体制の王侯貴族が支配している国々を打ち破っていくのは、それこそベートーヴェンにとっても理想的人物であり、たとえば1804年に作曲した『交響曲第3番』には、当初、『ナポレオン』というタイトルをつけて、ナポレオンに献呈しようと考えていたほどでした。

 ところが、その1804年、ナポレオンはフランス皇帝になりました。しかも、自分の子孫に王権を世襲させるという条件付きでした。つまり、啓蒙思想の理想像と思っていたナポレオンが、血族を重んじる皇帝になってしまったわけで、失望したベートーヴェンは『ナポレオン』と書かれたタイトルを破り捨てたといわれています。

●敗者にムチ打つイギリス人

 ウェリントン将軍に話を戻します。彼は、1815年に復位したナポレオンが率いたフランス軍をワーテルローの戦いで再び破り、その後、英国政府によりナポレオンは、アフリカ大陸からも2800kmも離れた南半球の孤島、セントヘレナ島に送られてしまいます。

 セントヘレナ島に行くのは現在でも大変で、2017年に南アフリカからの定期航空便が就航するまでは、南アフリカのケープタウン港から5日間もかかる船でしか渡航手段がありませんでした。そんな、地の果てを越えたような場所に送るとは、よほどヨーロッパ諸国もナポレオンを恐れていたのでしょう。これによって、有名なナポレオンの「100日天下」は終わるわけですが、この話を最後に話したかったわけではありません。

 激戦地のワーテルロー(Waterloo)を英語にすると、“ウォータールー”です。ロンドンに住んでいた方ならピンと来ると思いますが、以前はロンドンからパリ行きの電車に乗る駅は、ウォータールー駅でした。つまり、ロンドンに遊びに来たフランス人は、ウォータールー駅からフランスに帰るのです。たとえば、日本人の皆さんが、アメリカから日本に飛行機で帰るとして、「ミッドウェイ空港」「イオウ・アイランド空港」からしか飛行機に乗れないとしたら、第2次世界大戦での敗戦を理解していても、少し複雑ではないでしょうか。しかし西洋人は、そんなことをまったく気にせず、敗者をコテンパンにあしらうというのも、文化の違いです。
(文=篠崎靖男/指揮者)