現在の江東区は江戸時代においても埋立地が広い範囲を占めていた。明治以後も埋立てにより土地が増えたが、明治時代では洲崎弁天町(現・東陽1丁目)の埋立てが最も早いものだという。
洲崎弁天町の埋立ては、根津(現・文京区根津)の根津神社門前にあった根津遊廓が、当時本郷に建設が計画されていた東京大学の近くにあるのは問題があるとされ、洲崎に強制移転を命ぜられたことによる。
根津神社は創建は不明だが、室町時代に太田道灌が再建したといわれ、もともと千駄木にあったが1706年に将軍・徳川綱吉の命により根津に移転した。直後から門前町には参詣客を目当てに茶屋が軒を連ね、遊女も増えた。
幕末の1842年には天保の改革の一環として遊女が取り締まられ、吉原に移転させられたが、60年に吉原が火事で焼けると、再建までの「仮宅」(かりたく)として復活。明治に入り、69年には遊女を抱える店を30軒として、5年間限定で貸座敷(遊郭)の営業が認められた。当初、娼妓(遊女)の数は128人だったが79年には貸座敷が90軒に増え、娼妓も574人にまで増えた。1885年には貸座敷が106軒で、吉原の85軒を凌ぎ、「東京第一の遊里」と呼ばれたのである。これでは東大生が勉学に勤しめないのも当然である。
●埋立地に遊郭をつくった
移転した洲崎は当時、戸数2戸、人口7人のみで、1170坪の敷地を持つ洲崎神社があるだけだった。元禄時代につくられたが1791年に高波に襲われて人家がすべて流され、多くの死者を出したため、以後住むことを禁じられたという土地だ。だが眺めがよく、春には潮干狩りで賑わったという。
埋立てが決定したのは1886年。
翌87年5月には、埋立地は洲崎弁天町と命名されて深川区に編入。88年9月15日の開業当日に間に合った貸座敷は二十数軒だけで、残りの貸座敷は夜中も突貫工事中だった。
●警視総監も開業式に来た
しかも、まわりは土管の埋立工事のために土が掘り返され、溝には板が渡されているだけ。火事を恐れて石油ランプを使わず、すべて電灯を使った文明開化の遊郭でもあったが、最初は電灯もちゃんとは点かないので、暗がりで溝に落ちる客も多かったという。貸座敷の壁もまた塗りが乾かないほどであった。
こうして正式に洲崎遊廓の開業式が挙行されたのは88年9月15日。それから15日間ほど各種のイベントが行われた。根津から移転した貸座敷は83軒。娼妓の数は974人。飲食店29軒、その他の店23軒という大規模なものだった。さらに2年後の90年には貸座敷93軒、娼妓1189人に増えたという。
また88年には東京市15区が成立し、洲崎埋立地の管理権は東京市が持っていたので、洲崎遊郭の大家さんは東京市ということになった。だから、開業式には来賓として総理大臣・黒田清隆、東京府知事・高崎五六(ごろく)、警視総監・三島通庸(みちつね)も列席した。都民税の多くが貸座敷から徴収されており、娼妓がいなければ警察の予算が足りなくなるとすらいわれており、遊郭もまた公的なものという時代であった。
開業式では花火300発が打ち上げられた。貸座敷はどこも軒先に日の丸を掲げ、生き人形や造花で飾り付けた。人気をさらったのは各座敷から選りすぐった娼妓たちを座敷に並べて見物させた、いわばファッションショーだった。遊郭とはいえ物珍しさから女性も子どももこのショーを見に来たという。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)
参考文献
岡崎柾男『洲崎遊郭物語』
吉田伸之他編『みる・よむ・あるく 東京の歴史 4巻』
『江東区史』