千葉県野田市で今年1月、小学4年の栗原心愛(みあ)さんが死亡し、父親の勇一郎容疑者が傷害容疑で逮捕された事件で、同市の教育委員会は、心愛さんが虐待被害を訴えていたアンケートのコピーを父親に渡したという。
心愛さんは2017年11月に当時通っていた小学校で実施されたアンケートで、「お父さんにぼう力を受けています」「先生、どうにかできませんか」とSOSを出した。
教育委員会の担当者の記者会見の映像を見たが、そんなに悪い人という印象は受けなかった。むしろ、“普通”の人という印象を私は受けた。もっとも、この手の“凡人”が、必ずしも悪気はないのに、最悪の結果を招く、つまり結果的に “悪”をなすことは少なくない。
これは、主に次の3つの理由によると考えられる。
(1)思考停止
(2)想像力の欠如
(3)自己保身
●思考停止
まず、アンケートのコピーを父親に渡した教育委員会は、恐怖から思考停止に陥っていた可能性が高い。これは、会見で「威圧的な態度に恐怖を感じ、屈して渡してしまった」と述べたことからも明らかである。
教育委員会は会見で「訴訟のことですとか、親の権利を主張されたり、言葉や態度から非常に威圧を感じた」とも話している。父親が、心愛さんの一時保護の後、小学校の校長に対して、今後心愛さんを保護する際にはすぐに父親に情報を開示することなどを約束させる「念書」を書かせたことからも、威圧的で“怖い”人だったことは容易に想像がつく。
もっとも、いくら威圧的で、恐怖を感じたからといって、「ひみつをまもります」と明記されていたアンケートのコピーを加害者である父親に渡すことが許されるわけではない。恐怖を感じたのも無理からぬ話だが、渡せないものは渡せないと断るべきだったと思う。
われわれ医師も、威圧的で、恐怖を与える患者から、自分に有利になるような診断書を書くよう求められることがある。「診断書に嘘は書けません」と断ると、怒鳴ったり、暴れたりする患者もいる。
もっとも、怖いからといって、それに屈して患者の要求通りに診断書を書くと、刑法160条の「虚偽診断書等作成」の罪に問われかねない。だから、のらりくらりとかわしながら、向こうがあきらめるのを待つ技術を身につけなければならないが、この技術は教育委員会にも必要なのではないだろうか。
●想像力の欠如
アンケートのコピーを父親に渡したら、どういう事態を招くかを想像することもできなかったように見える。
まず考えられる事態は、父親の怒りにさらに拍車をかけることである。「お父さんにぼう力を受けています」という文章を読んだ父親が激怒するであろうことは、ちょっと考えればわかりそうなものだ。もともと攻撃衝動をコントロールできなくて暴力を振るっていた父親の怒りに火がつけば、暴力が一層激しくなるであろうことは容易に想像がつく。
また、心愛さんへの影響も深刻だ。「ひみつをまもります」と明記されていたからこそ、勇気を振り絞ってSOSを出したのに、守られるはずの秘密が守られず、父親に知られてしまった。その結果、父親の暴力が以前にも増して激しくなれば、絶望感に打ちひしがれるだろう。
それ以上に深刻なのは、SOSを出しても無駄、いやそれどころか事態をさらに悪化させるということを学習し、SOSを出さなくなることだ。その結果、死亡という最悪の結末を迎えてしまった可能性も考えられる。そういう可能性に想像力が及ばなかったという点で、教育委員会は罪深いと思う。
●自己保身
自己保身のためにアンケートのコピーを父親に渡した可能性も否定しがたい。もちろん、威圧的な言葉や態度に恐怖を感じ、自分の身に危険が及ぶのではないかと危惧したこともあるだろう。だが、それ以上に、上層部に直訴されたり、訴訟を起こされたりして面倒くさいことになったら困るという気持ちが強かったのではないか。
そういう面倒くさいことになれば、現在の役職や肩書を失いかねない。そのことへの恐怖が強かったからこそ、アンケートのコピーを父親に渡すとどういう反応をするかに想像力が及ばなかったのではないか。
もっとも、わが身を守るためにやっても、自己保身とは真逆の結果を招くことはままある。今回も、アンケートのコピーを父親に渡した行為は、情報公開条例違反に当たる可能性もあるらしく、野田市は関係者の処分を検討しているという。
●“凡人”が“悪”をなす恐ろしさ
この事件では、母親も勇一郎容疑者と共謀し、心愛さんに暴行したなどとして、傷害容疑で逮捕された。暴行を制止しなかったことが共謀に当たるとみなされたようだ。
教育委員会の担当者にせよ、この母親にせよ、いわば“普通”の人である。そういう“普通”の人が最悪の結末を招くことに加担したわけだが、こういうことは誰にでも起こりうる。
しかも、“凡人”ほど、怖がりである。そのため、自己保身を考えるあまり、思考停止に陥りやすいし、想像力を働かせることもできない。本人は「怖かったから、仕方がなかった」と自己正当化するかもしれないが、それが結果的に“悪”につながりかねない。したがって、作家の米原万里の「悪は『まともさ』の延長線上にある。だからこそ恐ろしい」という言葉を肝に銘ずるべきである。
(文=片田珠美/精神科医)