皆さんは同じ長さの直線が矢の向きによって異なった長さに見える「ミュラー・リヤー錯視」を見たことがあるでしょう。

 これは本来、直線とは無関係な矢印の向きが、人間の知覚を惑わしているのです。

多くの錯視は、物体の見え方が背景の色、影の濃淡、描写法(遠近法)などに影響される効果を狙ったものです。視覚以外の知覚も同様で、人間は一見、無関係と思われる要素に惑わされてしまうことが多くの研究からわかっています。

 マーケティングにおいてこのような例を紹介するため、まずは、ダン・アリエリーの行った「ECONOMIST」という週刊誌の年間購読の選択実験を説明しましょう。同誌の年間購読プランA、B、Cのどれを選ぶかを、マサチューセッツ工科大学スローン経営大学院の学生100人に訊いた結果が下の表です。

・プランA:ウェブ版「エコノミスト」の購読 59ドル - 16人
・プランB:印刷版「エコノミスト」の購読 125ドル - 0人
・プランC:印刷版およびウェブ版のセット購読 125ドル - 84人

 プランBはプランCと同じ料金ですが、ウェブ版が含まれていないため、合理的な消費者であれば、当然、プランBを選びません。次に選択肢からプランBを除いて、同じ学生100人にプランAとCのどちらを選ぶか訊いた結果が以下です。

・プランA:ウェブ版「エコノミスト」の購読 59ドル - 68人
・プランC:印刷版およびウェブ版のセット購読 125ドル - 32人

 ここで興味深いのは、選択肢がプランAかCだけの場合、より安いプランAを選ぶ人が多いのに対して、誰も選ばないまったく無意味なプランBが選択肢に加わっていると、値段の安いウェブ版よりセットのほうが選ばれたことです。プランAとCの相対的な評価が、プランBの有無に影響を受けたため、この現象はアンカリング効果(係留効果)と呼ばれています。

 この場合、出版社は、誰も選ばない印刷版のみのプランBをオトリ商品として提示することによって、より高価なセット版の販売を増やすことができます。では売り手はオトリ商品によるアンカリング効果をどのように使うかを紹介しましょう。

 ある寿司屋では2種類の盛り合わせ、高価格・高品質の「竹」と低価格・低品質の「梅」を提供していて、現状、これらの注文は半々です。売上アップのために店主は「梅」より「竹」の注文を増やしたいのですが、どのようなオトリ商品を提供するべきでしょうか? ここでは、2つの対策が考えられます。


A)「竹プラス」を出す(妥協効果)

「竹プラス」は「竹」と中身(品質)は同じですが、食器を高級にしたり「期間限定」を名乗ったりすることによって、より高額になっています。図1は、価格軸と品質軸のマップ上に3種類の盛り合わせをプロットしたものです。「竹プラス」は賢い消費者には選ばれないため、無関係な選択肢、つまりオトリ商品となります。「竹」の「梅」に対する弱みは高価格なことですが、「竹」と同品質でさらに弱みが大きい「竹プラス」が存在することで、「竹」の弱みが和らぐ効果があります。劣った属性(価格)の範囲を広げることによって、それほど悪くないと感じさせることから、妥協効果あるいはレンジ効果と呼ばれます。

B)「梅プラス」を出す(魅力効果)

「梅プラス」は「梅」と中身(品質)は同じですが、食器を高級にしたり「期間限定」を名乗ったりすることによって、「竹」と同じ価格になっています。図2は、価格軸と品質軸のマップ上に3種類の盛り合わせをプロットしたものです。「梅プラス」は賢い消費者には選ばれないため、無関係な選択肢、つまりオトリ商品となります。「竹」の「梅」に対する強みは高品質なことですが、「竹」と同価格なのに品質が低い「梅プラス」が存在することで、「竹」の強みが引き立つ効果があります。優った属性(品質)に関して、より劣ったオトリを加えることで、一層魅力的に見えることから、魅力効果あるいはフリークエンシー効果と呼ばれます。

C)妥協効果>魅力効果

「梅」に対する「竹」の選好を増加する妥協効果と魅力効果ですが、どちらの効果がより強いでしょうか? プロスペクト理論などで提唱されているように、人間は利得増加よりも損失回避を重視します。「梅」に対する「竹」の弱みは損失、「梅」に対する「竹」の強みは利得と解釈できるため、弱み(高価格)を和らげる妥協効果は強み(高品質)を増強させる魅力効果より強くなります。


D)妥協効果+魅力効果

 妥協効果と魅力効果の相乗効果を狙って、図3のような「竹」より高価格かつ低品質な「オトリ」商品を販売したら、「梅」に対する「竹」の販売比率をもっと増やせるのではと考える読者もいるのではないでしょうか? 両方の属性(品質と価格)の値を同時に操作した「オトリ」商品だと、人は品質の違いと価格の違いとをトレードオフにかけて、頭の中でさまざまな計算をするため、妥協効果や魅力効果が弱まってしまいます。どちらか片方の属性値のみを変えることによって、商品間の優劣がより明確となり、妥協効果あるいは魅力効果が強く出ることが実験で確認されています。
(文=阿部誠/東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授)

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