1989年1月7日午前6時33分、昭和天皇崩御。同日午後14時半過ぎ、小渕恵三官房長官(当時)が「新しい元号は『へいせい』であります」と発表した。
あらゆる事象に“平成最後”が冠せられたり、新元号の発表方法に関する報道があったりと、約30年ぶりの改元に対する関心が高まっている。平成は本年(平成31年)の4月30日をもって終わり、その前後は空前の10連休になるという。
ところで、その約30年前――昭和から平成への改元の直前・直後の日本には、どんな風景が広がっていたのだろう?
その前に整理しておくと、昭和は1989年(昭和64年)の1月7日に終わり、平成は同年の翌1月8日に始まっている。つまり、“昭和64年(の1月)”はわずか7日間、そして“平成元年の1月”は24日間しかなかったわけだ。
バブル崩壊のきっかけとなった、当時の大蔵省による総量規制の開始は翌平成2(1990)年の3月のこと。つまりこの時期は、まさにバブル絶頂期である。そんな折りに“イレギュラーな暦”を経験することとなったこの1989年の最初の1カ月を、芸能、スポーツ、娯楽などの分野を中心に振り返ってみたい。それは、平成31年の視点から眺めてみると、実に興味深い事象の宝庫なのだ。
前年の昭和63年から、昭和天皇の健康状態の悪化が報道され、日本列島は自粛ムードに包まれていた。さまざまなお祭り・祝典の類いが中止となり、一部では大きな音量で音楽をかけることさえ控えられた。プロ野球の優勝チームは、ビールかけをやめている。
テレビでは、日産の人気セダン車・セフィーロのCMで話題となった井上陽水のセリフ「お元気ですか~?」がカットされ、アダルト色が強い深夜アニメ番組『レモンエンジェル』(フジテレビ系)が放送休止を余儀なくされた。
年が明けて昭和64年に入ってからも、賀正ムードは控えめ。この頃の正月番組には欠かせない存在であった伝統演芸コンビの海老一染之助・染太郎は、決めゼリフ「おめでとうございま~す」を「ありがとうございま~す」へと変更した。
昭和64年の1月を検証するシリーズの第1回である本稿では、昭和最後の「正月三が日」の日本を取り上げてみよう。
●東京ドームでのカウントダウンライブはジャニーズではなかった
ジャニーズ勢が東京ドームで“カウコン”を行うようになったのは、平成10~11年(1998~99年)の年越しから。それ以前はX JAPANが、1997年の解散まで5年連続で開催していた。
昭和の末期にも年越しカウントダウンコンサート自体は珍しくなかったが、現在のように会場とアーティストが固定化しているケースはまれであった。
では、昭和63年(1988年)の大晦日から、昭和64年(1989年)の元日にかけて、東京ドームで、どんなライブが行われていたのか? この答えは、なかなか意外である。
というのも、ボン・ジョヴィ、ラットなど複数の海外アーティストによるロックフェス的イベントが行われていたのだ。その名も「SANYO HEAT BEAT LIVE '89 IN BIG EGG」。
バブル期にはこのように、海外大物アーティストを集めた、企業名を冠する大規模音楽イベントが頻繁に開催されていた。ちなみに「BIG EGG」は、定着しなかった東京ドームの公式愛称である。
なお、このボン・ジョヴィら出演のイベントは、カウントダウンライブだけではなく、明けて昭和64年の元日にも行われている。
一方、『紅白歌合戦』には出演しない国内のロック系アーティストが集結し、全国各地の会場にて同時進行で行われる『Rock 'n' Roll BAND STAND』という、現在の年越し音楽フェスの先駆けともいうべきイベントも存在した。“若者向けの裏紅白”といったな位置づけで、こちらもNHKがBSで中継していた。
●Jリーグはスタート前、元日には天皇杯が開催されていた
天皇陛下の健康状態悪化が深刻化していることが広く報道されるなか、元日に「第68回天皇杯全日本サッカー選手権大会」の決勝が行われている。
全32チームによるトーナメント形式の本戦1回戦が前年12月から始まり、決勝に駒を進めたのは日産自動車とフジタ工業。優勝したのは日産だ。そう、この時代はまだ日本のサッカーはプロ化されていなかったのだ。
プロサッカーリーグ「Jリーグ」のスタートは平成5(1993)年。日産自動車はその1年目から参加していた「横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)」、フジタ工業は2年目に加盟する「ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)」の、それぞれ前身である。
この天皇杯には、日産以外にも、読売クラブ(ヴェルディ川崎→東京ヴェルディ1969→東京ヴェルディ)、住友金属(鹿島アントラーズ)、松下電器(ガンバ大阪)、三菱重工(浦和レッドダイヤモンズ)、全日空(横浜フリューゲルス=消滅)、古河電工(ジェフユナイテッド市原→ジェフユナイテッド市原・千葉)、トヨタ自動車(名古屋グランパスエイト)、マツダSC(サンフレッチェ広島)など、Jリーグのいわゆる“オリジナル10”の前身が9チーム出場。清水エスパルスのみチーム結成前だ。
この時代から今に至るまでプロとして途切れず現役を続ける日本人選手は、現在は横浜FCに所属する三浦知良のみ。
●自粛ムードとは相反する“あの番組”が放送されていた
前年からテレビは自粛モードで、バラエティ番組が抑えめの内容となり、他の番組に差し替えられることがあった。正月番組も全体的にマイルドな味付けになっていた。
だが、正月のバラエティ番組がゼロになったわけではない。元日恒例の『新春かくし芸大会』(フジテレビ系)は放送されているし、なかには世の中の流れとは反したような番組もあった。というのも、のちにシリーズ化される『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(日本テレビ系)の第1回が、1月2日に放送されているのである。大衆は刺激的な娯楽に飢えていたのだろう。この過激な内容の番組は高視聴率を記録し、日テレは翌年の正月には、同番組を元日の『新春かくし芸大会』のウラにぶつけることになる。ちなみに、第1回の優勝者は林家ペーだった。
この番組が放送されたことからもわかるように、メディアの自粛バランスは必ずしも一定でなかったことがわかる。
●日大アメフト部は、絶頂期を迎えていた
アメリカンフットボールの日本選手権「ライスボウル」が、学生代表vs社会人代表の対戦となったのは第37回大会から。昭和64年1月3日に行われたのは第42回大会で、このときは大学代表の日本大学フェニックスが、社会人代表のレナウンローバーズに圧勝している。
どれくらい絶頂期だったかというと、以降、ライスボウルを3連覇したほか、平成元年5月には“日本大学創立100周年記念作品”として、『マイフェニックス』という同チームをモチーフにした映画が公開されているのだ。
富田靖子、宍戸開が出演したこの作品、当然、“もっとも多くの社長を輩出している大学”として有名な日大OBがチケットをまとめ買いしてくれることを織り込んだものだと思われるが、残念ながら大ヒットの域には達しなかった。
付け加えるならこの作品では、ライスボウル3連覇時の指揮官・篠竹幹夫氏(をモデルとした人物)を菅原文太が演じているが、例のパワハラ騒動で辞任した内田正人前監督(当時はコーチ)らしき人物は登場しない。
(文=ミゾロギ・ダイスケ)
●ミゾロギ・ダイスケ
ライター・編集者・昭和文化研究家/映画・アイドルなど芸能全般、スポーツ、時事ネタ、事件などを守備範囲とする。今日の事象から、過去の関連した事象を遡り分析することが多い。著書に『未解決事件の昭和史』(双葉社)など。