“パワハラ”への理解が社会で成熟しつつある。
社会人である以上、部下や後輩を指導する際、「昔、自分も厳しい指導を受けたから同じように指導しても問題ない」「上司から言われたことを中間管理職として行っただけだから、責任は組織が取ってくれる」という認識は、もはや時代遅れだ。
上からの命令に絶対服従を求められる実力組織である自衛隊とて、例外ではない。何が正しく、正しくないか、その判断は自らで行わなければならない。
そして、真に反省した者ならば、組織と社会は温かく受け入れるべきだ。
●いまや“ホワイト企業”となった海上自衛隊
昨年9月、海上自衛隊補給艦「ときわ」に乗艦していた3尉(32)が、艦内で自ら命を絶った。当時の艦長、運用長、船務長らによるパワハラが原因である。この件について海上自衛隊に問い合わせると、次のように回答した。
「海上自衛隊として言い逃れができない事案です。すでに各種報道でも報じられているように、当時の艦長、運用長、船務長の3幹部自衛官には懲戒処分を行いました」(海上幕僚監部広報室)
これに伴い、当時の艦長、運用長、船務長は、すでに艦艇勤務から外され、現在(本稿執筆2月26日時点)、「護衛艦隊司令部付」として陸上勤務となった。もっとも、この配置は処分に伴う一時的なもので、そう遠くないうちに別の配置へと異動することになるという。もちろん、これまでと同様に艦艇勤務とはいかないようだ。その理由を海幕関係者は次のように語る。
「パワハラで乗員ひとりを自殺に追い込んだ前艦長を、また艦長職に就けるということは、それこそ艦艇勤務隊員たちの士気にかかわる。
2004年に起こった護衛艦「たちかぜ」のいじめ・パワハラ乗員自殺事件以降、海自ではパワハラ根絶に注力してきた。今、海自では厚生労働省が定めた「職場のパワーハラスメントの定義」に従って、きめ細かく対応している。
たとえば、上司の部下に対するパワハラはもちろん、同僚間においても適用される。極端な例だと、長年艦に乗っている乗員が、着任間もない艦長に向かって「あんたそれでも艦長ですか?」「艦を降りろ」などと発言すれば、これもパワハラ認定され、発言者は厳しく処分されるという。その“ホワイトさ”は、民間企業をはるかに凌ぐといっても過言ではない。
それは海自のみならず、陸・空の自衛隊各部隊でも「パワハラ撲滅」を促すポスターが貼られ、階級を問わずパワハラ理解を深めるための講習も頻繁に行われている。そうした自衛隊全体での取り組みが浸透しつつあった矢先に、今回の事件は起きた。
●海自幹部自衛官「実力組織だからといってパワハラを認める理由にはならない」
事件の舞台となった補給艦「ときわ」と同じ横須賀を母港とする艦艇勤務の幹部自衛官(1尉)のひとりが、語気を荒らげて話す。
「仲間、味方を殺してどうするんだ。隊員一人ひとりの特性を見極めて本人の可能性を引き出すことが、全自衛隊的にも求められている。それをこの件で全部ぶち壊してくれた」
言うまでもなく、自衛隊は実力組織だ。ごく少数だが、一部の隊員やインターネット上には、「すこし厳しいことを言われたくらいで……」と、亡くなった自衛官を誹謗するような声もある。
「幹部でも一般の隊員でも、私たちは自衛官である前に国民であり、法令を遵守する立場の公務員です。わが国の法律や自衛隊の規則に、『自衛官ならパワハラをしてもいい』などという条文がどこにありますか? 実力組織であることが(パワハラをしてもいいという)根拠にはなりません」
海自においては、パワハラは刑事犯罪と同じと認識されている。
●密室性高い艦艇部隊では「艦長は絶対的権力者」
だが、艦艇部隊の現場では、こうした海自全体で進みつつあるパワハラ根絶の流れを理解しつつも、どこか追いついていなかった側面もあるようだ。現在、護衛艦に乗り組む40代後半の下士官は言う。
「海自では、艦長は絶対的な権力者です。たとえ『この艦長はおかしい』と思っても、とても逆らえるものではない。艦でナンバー2の副長といえども、意見など言える雰囲気はない」
徹底した階級社会、ピラミッド型組織である海自のなかでも、とりわけ艦艇部隊はその傾向が顕著だ。艦艇という鉄の塊のなか、四方を海に囲まれ、世間とは隔絶された環境のなかで一日の大半を過ごす。勢い、艦艇乗員たちは、その階級を問わず、海自という組織全体が何を求めているかを考えるよりも先に、まずは艦長の顔色をうかがうようになる。
もちろん、旧軍でいえば少佐や中佐といった高い位を持つ3佐、2佐の副長や科長クラス(砲雷長や補給長といった職)といえども、例外ではない。人事を左右する艦長の前では、佐官級の副長や科長も入隊したばかりの10代の新人隊員と同じく、「その他大勢の乗員のひとり」(前出の下士官)の扱いなのだという。
そんな閉鎖空間である艦ならば、たとえ1尉(旧軍でいう大尉)という階級を持つ幹部自衛官といえども、艦長に絶対服従を余儀なくされたことは誰しも容易に察しのつくところだ。
●補給艦「ときわ」前運用長の実像とは?
今回、補給艦「ときわ」で発生したパワハラ自殺事件で処分された前艦長以外の2幹部自衛官のうち、3尉の直属上司にあたるのが前運用長(1尉)である。その前運用長の後輩にあたる現役下士官は言う。
「前運用長は、若い頃から部下や後輩に暴力を振るったり、声を荒らげたりするような人ではありませんでした。今回、被処分者として彼の名前があがり、非常に驚いています」
海自の調査によると、この前運用長は3尉が自殺する前、「退職したい」と辞意を伝えた際に「自分で考えろ」と言い放ち、その後も直属上司として親身になって3尉の相談に乗るなどの対応を“何も行わなかった”とされる。
だが、こうした海自側が出す調査結果に、前出の後輩現役下士官は違和感を持つという。
「若い頃から前運用長は、そもそも口数の少ない人でした。この『自分で考えろ』とは、『何も辞める必要はないだろう』ということを(3尉に)伝えたかったのではないでしょうか。どうも、事件が表面化してから、ただ前艦長の命令に従っただけの前運用長を、悪意を持って捉え、切り捨てようという動きがあるように思えてなりません」
●「停職30日」「停職20日」が意味するものとは?
この現役下士官が言う“切り捨てようという動き”とは、冒頭で挙げた懲戒処分の停職日数を指す。従来、パワハラ事案での停職処分日数は、「せいぜい5日か6日程度」(海幕関係者)というのが相場だった。
しかし、今回は艦の責任者である前艦長が停職30日、前運用長と前船務長がそれぞれ同20日だ。随分と重い処分となっているが、これには理由がある。
「人が死んでいる事案です。単なるパワハラ事案での処分とは事情が違う」
そして、この「停職30日」「停職20日」という数字が持つ意味、海自側の“言外のメッセージ”を、こう推測する。
「自発的に(海上自衛隊を)辞めてくれ、ということでしょう」
一度懲戒処分を受けると、自衛隊に在職している限り、ずっとこの処分歴はついてまわる。当然ながら昇任は難しく、給与面でも響く。再就職にも影響しかねない。これからの人生は厳しいものとなる。
もっとも、前運用長と自衛隊同期入隊者や後輩たちも、この処分日数が意味する海自側のメッセージは十分理解しているようだ。その上で彼らは、こう声を上げる。
「前運用長もまた、『ときわ』に着任して間もなかった。前艦長に追い立てられて、直属部下である3尉に無理な指導を余儀なくされたところもあると聞く。そうした“艦ならではの事情”が、今回下された処分には反映されていない。
とはいえ、幹部自衛官である以上、たとえ階級が高位でも上席にあたる艦長の組織運営に問題があれば、これは一般企業でいうところの上級セクション、今回のケースだと補給艦「ときわ」が所属する第1海上補給隊や護衛艦隊の司令部、あるいは“本社”にあたる海上幕僚監部補任課といったところと協議し、適切な対応を促すことができただろう。
しかし、この上級司令部や、しかるべきセクションへの“通報”という行為を是としない空気感が、海自という組織そのもの、あるいは自衛官たちにはある。潔くない、男らしくないというのが、その理由だ。また、そうした行為は、「(同じ艦に勤務する)仲間を売る行為」として忌み嫌われているところもある。
こうした旧来からの自衛官たちの価値観と“艦長絶対主義”という海自の組織風土が、若い頃は「大人しい人」(前運用長と親しい後輩隊員)だったという前運用長の人柄を変え、パワハラ加害という行動へと駆り立てたのかもしれない。その意味では、彼もまたパワハラの被害者といえるのかもしれない。
●約8000万円の賠償額(認容額)も
過去、自衛隊でのパワハラ・自殺事案では、2004年の護衛艦「たちかぜ」の件で7700万円の国家賠償請求額が、2011年の航空自衛隊浜松基地の件で8015万円が認められた。
今回の事案は、幹部自衛官による幹部自衛官へのパワハラによる自殺だ。複数の弁護士によると、賠償額は「1億円を超える可能性もある」という。
前運用長と自衛隊同期入隊者のひとりは、「亡くなった3尉のご冥福を心からお祈りする」と前置きし、前運用長の様子をこう語った。
「人が亡くなっている事件だけに、本人も責任を痛感しているはずだ。裁判などになれば、彼が責任を感じて自殺しやしないかと同期のひとりとして心配している」
事件関係者によると、亡くなった3尉の遺族は、事をこれ以上荒立てず、そっとしておいてほしいとの意向で、今回処分された前艦長、前運用長、前船務長ら3幹部自衛官や海自への国家賠償請求訴訟や、刑事告訴などは行わない見通しだという。
これにより事件は、3幹部自衛官の停職処分明けをもって終結することになる。
●課題は懲戒を受けた3幹部自衛官をどう生かすか
事件・事故とは起きてしまうものだ。大事なのは、その事故から何を学ぶかだ。
今回の事件を教訓とし、海自は部下が上司を匿名で“逆評価”するなどの人事制度を確立するといった「艦長絶対主義」を見直すための抜本的な人事改革を行う必要がある。
同時に、懲戒3幹部自衛官をただ切り捨てるのではなく、「どうしたら同様の事件が起こらないか」を丁寧に聞き取り、これを生かす場を設けなければならない。
たとえば、人事やメンタルヘルスといったセクションで、かつて当事者だった者の立場から「パワハラ根絶」のために働いてもらうなどだ。
今後の彼らの生き方は、海自に属する人たち全員と国民が注視している。懲戒処分を受け、艦乗りとしての人生設計の変更を余儀なくされたからといって、単に定年まで自衛隊という安定した組織にしがみつくような生き方を許すことがあってはならない。
3幹部自衛官が海自で真にパワハラ根絶のために汗を流す姿を見せれば、きっと手を差し伸べる同僚が現れるはずだ。自らの生き方をもって、今回の事件と向き合う義務が彼らにはある。それを自覚すべきだ。海自もまた、そんな彼らを生かす義務がある。
(文=秋山謙一郎/経済ジャーナリスト)