東京都渋谷区の児童養護施設「若草寮」で施設長の46歳の男性が刺殺され、元入所者で22歳の田原仁(ひとし)容疑者が殺人未遂容疑で現行犯逮捕された。田原容疑者は「施設に恨みがあった。

施設の関係者であれば誰でもよかった」「他の職員も刺す予定だった」などと供述しているので、「若草寮」の職員を無差別に殺害することをもくろんでいた可能性が高い。

 しかも、凶器の刃物を2~3週間前に購入していたということなので、衝動的な犯行ではなく、以前から殺害計画を練っていたと考えられる。

 それでは殺したいと思うほどの「恨み」とは何かという話になるが、それがもう一つはっきりしない。というのも、田原容疑者は「若草寮」で3年間過ごし、18歳で退所、就職した後も、この施設の世話になっているからだ。昨年9月、施設が紹介したアパートで家賃を滞納したり壁を壊したりするトラブルを起こしたが、このときも施設側が修理費を立て替え、新たな就職先を紹介している。だから、客観的に見ると、彼が入所していた施設にも、殺害した施設長にも感謝こそすれ、恨む筋合いはないように思われる。

 田原容疑者を凶行に走らせた「恨み」とは一体何だろうか?

●被害妄想を抱いていた可能性

 私が注目するのは、田原容疑者の「施設からお金や仕事の話をされることをストーカー行為と感じていた」という趣旨の供述である。施設側がお金や仕事の話をしたのは、18歳で施設を出て自立しなければいけない元入所者を心配してのことであり、かなり面倒見の良い施設のように見えるが、それを彼は「ストーカー行為」と受け止めたわけで、被害妄想を抱いていた可能性が高い。

 田原容疑者がアパートの壁を壊したのも、被害妄想のせいで、自分を迫害する見えない敵に脅かされていると感じ、その敵と戦おうとして、壁を蹴ったり叩いたりしたからかもしれない。壁に穴を開けたとも報じられているが、幻聴もあって、どこからともなく声が聞こえてくるので、その主を探そうとした可能性も考えられる。

 困ったことに、被害妄想を抱いていると、「自分がやられる」という恐怖がまずあるので、「やられる前にやらなければ」と思い込みやすい。ときには、実際に攻撃されたわけでもないのに、「やられた」ように感じ、「やられたのだから、やり返して当然」と自分の攻撃を正当化することもある。


●統合失調症の発病初期に多い「動機なき殺人」

 もちろん、被害者意識が人一倍強く、逆恨みしただけという見方もできるだろう。家庭の事情で多感な思春期を施設で過ごさなければならなかったうえ、進学したくても経済的な理由で就職しなければならず、18歳で自立して家族のサポートなしにやっていかなければならない境遇では、「自分だけが苦労している」という思いを抱くのは当然だ。さらに、不安と孤独感もあいまって、被害者意が募っても不思議ではない。

 ただ、精神科医としての長年の臨床経験から申し上げると、田原容疑者の供述した「恨み」を被害者意識が強いということだけで説明するのは難しい。むしろ、妄想的確信にもとづいて犯行に及んだと考えるべきだ。妄想とは、現実離れしたことでも、本人が真実だと確信していて、訂正不能な思考内容である。

 それでは、なぜ被害妄想を抱いていたのかという話になるが、まず考えられるのは統合失調症を発病していた可能性である。10代後半から20代前半は統合失調症の好発期だ。そのうえ、仕事が長続きせず職場を転々としていた不安定な生活が発病を後押ししたかもしれない。さらに、昨年12月に住み込みで働いていた会社の寮を突然立ち去ってからはネットカフェなどで寝泊まりしていたらしいが、こういう環境では睡眠が十分とれないはずで、それが病状を悪化させた可能性もある。

 統合失調症の発病初期に、他人には到底理解しがたい動機から遂行される「動機なき殺人」が起こりやすいことは、フランスの精神科医、ジロー・Pらが報告している。私自身、統合失調症の発病初期に母親に悪魔が憑いているという妄想を抱いて母親を殺害し、措置入院していた20代の男性患者を主治医として担当したこともある。


 この患者は、事件を起こすまで精神科を受診していなかった。田原容疑者も、精神科受診歴がなさそうだが、もし周囲の誰かが精神変調に気づき、精神科で診察と治療を受けさせていたら、今回の凶行を防ぐことができたかもしれない。

 もっとも、田原容疑者には自分が心の病気であるという自覚(病識)はなかったはずだ。また、家族と一緒に暮らしていたわけではないので、赤の他人が精神科に連れて行くのは難しかっただろう。

 周囲が精神変調に気づき、精神科受診につなげるのはとても重要であると同時に、非常に難しい問題だ。精神科医をはじめとして、精神医療に携わる者が力を合わせて取り組んでいかなければならない。そのためには、社会の理解が不可欠である。
(文=片田珠美/精神科医)

参考文献
Guiraud, P., Cailleux, B. : Le meurtre immotivé, réaction libératrice de la maladie, chez les hébéphréniques. Annales Médico-Psychologiques. 1928;12 ( 2 ):352-360.
Guiraud, P. : Les meurtres immmotivés. L’évolution psychiatrique. 1931 mars;2:24-34.

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