2019年5月1日に改元する新元号が、4月1日に発表されることが決まった。今上天皇は今後、「上皇」と呼ばれるそうだ。
意外に知られていないような気がするのだが、今上天皇のお名前は「明仁」(あきひと)である。父の昭和天皇が明治天皇を尊敬していたので、「明」の字がつけられたらしい。そういえば昭和天皇も、在位の間は『天皇ヒロヒト』(英国人レナード・モズレーの著書名)などと呼ばれた。お名前が「裕仁」だったからだ。
将来「昭和天皇」と呼ばれることと、みんな薄々感づいてはいたが、厳密にはそうでないことも知っていた。なぜかといえば、「昭和」というお名前は、諡(おくりな)といって死後に贈られるお名前だからだ。いうならば、坊さんにつけてもらう法名「○○院」と同じなのだ。なぜ、そんなことをするかといえば、実名は呪術の対象になるので呼んではならないという古代中国の考え方が、天皇家に残っているからだ。
●カタキであっても礼を失しない忠臣蔵
現代日本の人名は苗字と実名(諱:いみな)から成っているが、明治以前は通称(ミドルネーム)があった。明治以前は、実名である諱で呼ぶことは失礼にあたるので、ミドルネームで呼んでいた。
たとえば、赤穂浪士の討ち入りだと、
浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)の遺恨を晴らすべく、
大石内蔵助良雄(おおいし くらのすけ よしお)率いる旧赤穂藩士47名が、
吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしなか)の屋敷に討ち入った。
となる。
このうち、内匠頭、内蔵助、上野介がミドルネームで、長矩、良雄、義央が諱だ。1999年のNHK大河ドラマ『元禄繚乱』では、良雄を「よしたか」、義央を「よしひさ」としていた。諱は普段呼んではならないものなので、正確な呼び方が伝わっていないことがままあるのだ。
確か、大石内蔵助は「めざすは上野介の御首級(みしるし)」とか言っていたような気がする。カタキであっても、決して「義央の~」とは言わないのだ。失礼にあたるから。
そして、死後も諱では呼べないので、法名で呼んでいた。例えば江戸幕府の公式文書では、「家光」「綱吉」などとは決して書かれず、「大猷院殿」(たいゆういんでん)「常憲院殿」(じょうけんいんでん)などと書かれている。もっとも、幕府と関係のない人物を記す場合には敬意を払う必要がなかったので、(足利)尊氏、(明智)光秀などと、諱をそのまま書いていたのだが。
そういった日本の伝統が、天皇家のお名前には今もまだ適用されているというわけだ。死後に諡号・追号をつけて、諱を呼ばないようにしているだけではなく、生前もなるべくミドルネームを使って諱を呼ばないようにしている。
現在の皇太子のお名前は「徳仁」親王(なるひと しんのう)なのだが、昔は「浩宮」(ひろのみや)様と呼ばれることが多かった。「○宮」というのは、いわば、ミドルネームなのである。みんなあまり知らないだけで、今上天皇も昭和天皇も、そして明治、大正天皇も、○宮という名前を持っていたのだ。
・明治天皇 祐宮 睦仁(さちのみや むつひと)
・大正天皇 明宮 嘉仁(はるのみや よしひと)
・昭和天皇 迪宮 裕仁(みちのみや むつひと)
・今上天皇 継宮 明仁(つぐのみや あきひと)
・皇太子 浩宮 徳仁(ひろのみや なるひと)
●日本人成人男子の名前を決めた嵯峨天皇
最近の男子皇族のお名前は、「○仁」というケースが圧倒的に多い。しかし、大化の改新の中大兄皇子は即位して天智天皇(38代)になったし、壬申の乱の大海人皇子は天武天皇(40代)になった。「○仁」というお名前、さらに踏み込んでいうと、漢字2文字で訓読みのお名前はいつ頃から始まったのか。
そもそも、諱を漢字2文字にしたのは、嵯峨天皇(52代)である。嵯峨天皇は漢籍に通じ、書では「三筆」のひとりに数えられる人物なのだが、子どもが非常に多かった。少なくとも50人以上はいた。子どもを全員養っていくと官費を圧迫するので、“1軍”と“2軍”とに分け、1軍は皇族、2軍は皇族離脱させて源(みなもと)の姓を与え、臣下とした。
そして、1軍の皇族組には漢字2文字の訓読みの名前、2軍の離脱組には漢字1文字の訓読みの名前を付けた。それ以降、貴族の間で漢字2文字の訓読みの名前が爆発的にヒットし、以降、日本の成人男子の名前(諱)の主流となったのである。
ちなみに、「○仁」という諱を初めて名乗ったのは、清和天皇(56代、惟仁:これひと)だが、それ以降はなかなか定着せず、後冷泉天皇(70代、親仁:ちかひと)以降に「○仁」という諱が主流となった。
嵯峨天皇が漢字2文字の諱を始めた頃には兄弟が同じ一字を使う傾向にあったが、ちょうどその、後冷泉天皇の頃から、親の一字を子が受け継ぐ――長嶋茂雄の子が一茂と命名されるような――風潮が始まったのだった。
●諡号・追号の違いとは
さて、死後に贈られる諡。厳密には諡号(しごう)と追号(ついごう)があるという。追号というのは、天皇のゆかりの地名や建物などに由来するもので、別邸の地名から取った白河(72代)、堀河(73代)、鳥羽天皇(74代)などが有名である。ちなみに明治天皇(122代)以降は元号が「一世一代」となり、元号がそのまま追号とされている。だから、「裕仁天皇は昭和天皇になるんだろうなー」とみんな薄々感じていたわけである。
これに対し、諡号は天皇を顕彰する名前で、生前にゆかりのある地名や業績とは無関係に命名される場合が少なくない。たとえば、神武(初代)、天智(38代)、天武(40代)、桓武天皇(50代)などである。業績に関係ないので、諡号にはあまり規則性はないはずなのだが、かといってまったくないわけでもない。
例えば光仁天皇(49代)以降、傍系から即位した天皇は「光○」という諡号になっている。ちなみに北朝の天皇も正式な天皇と認めてられていないせいか、北朝5人のうち、3人が「光○」、1人は「○光」天皇である。
また、崇徳天皇(75代)以降、配流された天皇は「○徳」という諡号になっている。なお、承久の乱に敗れて隠岐に配流された後鳥羽天皇は、もともと顕徳天皇という諡号だったのだが、孫の後嵯峨天皇がそれじゃ外聞が悪いということで、後鳥羽天皇という追号を贈ったのだという。
●小松天皇はいないのに後小松天皇
諡(おくりな)とは「贈り名」から来たことばで、本来は死後に贈るものなのだが、生前に自ら名乗ってしまった場合もある。後醍醐天皇(96代)は、「醍醐(60代)や村上(62代)の頃の時代は摂関政治もなく、天皇親政が行われていた理想の時代だ」と評し、みずから後醍醐を名乗り、子どもには後村上を名乗らせた。以後、「後○○」という追号の天皇は27人を数える(北朝の1人を含む)。
筆者が高校生の時、同級生の小松君が「南北朝の統一の時の天皇は後小松天皇だけど、小松天皇はいたのか?」と尋ねてきた。教科書や教材に掲載されている歴代天皇一覧には掲載されていないが、実はいた。平安時代には諡号と追号を両方贈られた天皇が何人かいて、光孝天皇の追号を小松天皇というのだ。
・後深草天皇(89代) 54代・仁明天皇の追号が「深草」
・後小松天皇(100代) 58代・光孝天皇の追号が「小松」
・後柏原天皇(104代) 50代・桓武天皇の追号が「柏原」
・後奈良天皇(105代) 51代・平城天皇の追号が「奈良」
・後水尾天皇(108代) 56代・清和天皇の追号が「水尾」
・後西天皇 (111代) 53代・淳和天皇の追号が「西院(さいいん)」
明治以前は生前譲位が多く、退位した天皇(上皇=太上天皇の略)は「○○院」と呼ばれていたので、生前譲位した天皇を「○○院天皇」と呼んでいた。「○○天皇」と呼ぶようになったのは、1925年のことだという。どうやらその時に、後西院天皇は後西天皇と誤読され、そのままになってしまったらしい。
もちろん、明治以降は「一世一代」の元号を追号としているので、「後○○」という天皇はもう誕生しない。
(文=菊地浩之)
●菊地浩之(きくち・ひろゆき)
1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『徳川家臣団の謎』(角川選書、2016年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)など多数。