敗戦後の東京の下町には、いくつかの赤線地帯があったが、そのうち2つが江戸川区にあった。1つは、総武線新小岩駅から10分ほどのところであり、もう1つは小岩駅から20分ほどのところである。

2月に、その2つを訪ね歩いてみた。

 新小岩駅南口を出て商店街のアーケードを歩く。シャッター通りではなく、すべての店が営業している。最近はマンションも増えたから、若い人たちの買い物需要も多いのだろう。

 商店が少しまばらになったあたりが赤線跡。商店街と昔は川だったところにフタをした道路に挟まれた三角地帯であり、今もいくつかスナックがある。1941年の地図を見ると何も描いてないので、市街地ではなく、湿地帯か何かだったのだろう。新小岩の赤線は、亀戸で戦災にあった業者が立石と新小岩に移転してきたものらしい。79軒の業者、175人の女性がいたという。

 そこから南下すると千葉街道で、それを東に行けば、もう1つの赤線跡にたどり着くのだが、ちょっと遠回りをした。どんどん南下して、京葉道路近くまで来たら東に曲がる。すると並木道があり、そこを5分ほど歩くと同潤会通りと交差する。
こういう並木は小さい川や用水路を埋め立てた暗渠に植えられたらしい。

 同潤会通りとは、ここに戦前つくられた同潤会住宅地を南北に縦貫する商店街である。同潤会とは、関東大震災のために世界中から集まった義援金を基にしてつくられた財団法人で、東京に近代的な住宅を建設する事業を行った。有名なのは表参道や代官山にあったアパートだが、アパート以外にも2階建ての長屋形式の賃貸住宅地や戸建て分譲住宅地もつくった。

 そのうち職工向けの分譲住宅地を、この江戸川区の東小松川につくったのだ。田んぼか湿地帯か、または金魚の養殖場だったところを埋め立てて、長方形の敷地に住宅を建設した。8年前に来たときはまだ木造であることがはっきりわかる分譲住宅が何軒も残っていたが、今はかなり建て替わっている。建て替わっていないものも、新築そっくりさんのように外壁が塗られたり、新しい壁で覆われたりしているので、昔の街並みは残っていない。

●消え去った赤線の名残

 同潤会から北上し、千葉街道に戻り、東へ向かう。10分ほど行くと新中川を渡る。渡った橋の右手の低地に焼き肉屋がある。なんだか美味そうだ。
橋を渡りきると、二枚橋というバス停がある。二枚橋は今渡った橋ではなく、新中川を並行して流れていた小さな川を渡る橋だ。そのバス停の北側が赤線だった。

 今は団地形式の官舎が建っている。もともとは精工舎の木造2階建ての女子寮が5棟並んでいたらしい。それを戦後そのまま利用して米兵用の慰安施設となり、その後、赤線となった。その名も「東京パレス」。とてもパレスという代物ではなかったはずだが、そういう名前だった。当時の写真には「青春の殿堂 都下随一のダンスホール」と書いた看板が見える。

 また、もともと女子寮だったので、ここには共同炊事場や大浴場があった。美容室、化粧品屋、寿司屋、焼鳥屋、中華そば屋などもあり、生活には便利だったらしい。

 施設の中がどういう間取りだったかは、わからないが、4畳ほどの広さの部屋がずらっと並んでいたのではないか。
そして今も官舎は5棟ずつ2列並んでいる。よほどこの配置がこの土地に適しているらしい。あるいは水道の配管や電気の配線の都合だろうか。

 あたりをぐるっと回ってみると、地主らしい大きな邸宅がある。また街道の反対側には公園があり、その北側は道路だが暗渠である。戦前の地図を見ると、この赤線のあたりは池である。おそらくそこを埋め立てて女子寮ができ、それが赤線になったわけだが、その頃の地図を見ると、まわりを小さな川が囲んでいたようだ。つまり吉原と同じ構造である。水路があるから別世界という感じがするし、働く女性たちからすれば、かたぎの世界とちょっと離れることができる。

 ここには57軒の業者、135人のダンサー兼女給が働いた。ダンサーは、体を売る女性とは本来は別の職種なのだが、米兵にしてみればそんなことはおかまないなしで、ダンサーも結局体を売ることになったらしい。

 かつて赤線であったことを感じさせるものはもう街中には残っていない。
ただ、新中川を渡る直前に、ぼろい商店があり、中に入ると暗い店内に、おとなのおもちゃやエロ雑誌を売る自販機が並んでいたのだけが、往時を偲ばせた。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

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