「近代彫刻の父」と呼ばれるAuguste Rodin(オーギュスト・ロダン)。『考える人』など、全世界に知られる作品を残した彫刻家です。

2017年は、ロダン没後100周年とあり、ロダン美術館のほか、パリのグラン・パレでも特別展『Rodin L'exposition du centenaire (ロダン、100周年記念展覧会)』(2017年3月22日~7月31日)が企画されています。

ところで、ロダンと聞くと、わたしが思いおこさずにいられないのは、その非凡な弟子Camille Claudel(カミーユ・クローデル)です。

類まれな才能でロダンを魅了したカミーユ・クローデル

2人の出会いは、1882年。カミーユの彫刻の師Alfred Boucher(アルフレッド・ブーシェ)がイタリア留学のため、ロダンに教師の代役を頼んだのがきっかけでした。

国から『地獄の門』の制作依頼を受けるなど、名声が確立しつつあった40過ぎのロダンでしたが、まだ十代のカミーユの才能に惚れこみ、その美貌と激しい性格にも惹かれるようになります。

1884年、カミーユはロダンのアトリエの制作メンバーに加わります。続いて、その共同制作者、恋人、モデル、ミューズとなるのに時間はかかりませんでした。2人はアトリエやモデルを共有し、調和ある仕事をするようになります。(中略)

このぴったりと絡みつくような関係は、2人の彫刻家に、くっきりと刻印を残すことになります。

「カミーユ・クローデル美術館プレスリリース」から翻訳引用

1886年には同棲をはじめる2人。ロダンにとって、カミーユは恋人であるとともにインスピレーションの源となるミューズでもあり、彼女をモデルに、複数の作品を制作します。

またカミーユに、持てるすべての知識を教えたものと考えられます。

けれども、じつは、ロダンには当時すでに20年も連れそった内縁の妻がいました。どちらの女性も手放そうとしないロダンとの関係は、カミーユにとって、次第に耐えがたいものとなり、その精神を蝕んでいきます。

愛憎ともに深い激情の人

たしか、わたしが初めてカミーユの名を知ったのは、イザベル・アジャーニが熱演した映画『Camille Claudel(カミーユ・クローデル)』(1988)を観たころだったように思います。

それもあってか、わたしのなかで、カミーユの印象は「激情の人」というもの。愛情も憎しみもぐんと深く、彼女の作品を見ても、それらの情がこもっているように思えてなりません。

『オーギュスト・ロダン』(1888-1898)© musée Camille Claudel, photo Marco Illuminati

たとえば、1888年から98年にかけての作とされるオーギュスト・ロダンの頭部像。

顔かたちのみならず、内面をも映しこんだように見え、この像を手掛けるカミーユの情念が感じられるようです。眺めていると、ロダンが内側から滴(したた)りでてくるような錯覚すら覚えます。

『分別の年代』(1890-1907)© musée Camille Claudel, photo Marco Illuminati

ロダンとの関係に悩むころから別れの時期にかけて手掛けた作品『L'age mûr (分別の年代)』は、彼らの三角関係を見事象徴しています。

その結末を知るだけに、後ろにとり残されて、悲痛な表情で手を伸ばし、去っていく男に呼びかける若い女の像が痛ましく、鑑賞しているだけで息苦しさを覚えるほどです。

独自の作風を打ち立てようともがく

『ワルツ』または『ワルツを踊る男女』(1889-1895年以前)© musée Camille Claudel, photo Marco Illuminati

徐々に、ロダンと距離を置きはじめるカミーユですが、ロダンの共同制作者であった過去が災いし、なにを発表しても、世間はロダンの名ばかりを口にします。

カミーユは、自分の作品に、いつまでもロダンの名がついて回ることに辟易(へきえき)し、次第に、被害妄想に囚われるようになってくるのです。

ところで、2年ほど前開かれたカミーユ・クローデル展には、カミーユが弟ポールにあてた手紙も何通か展示されていました。なかには、作品のアイディアが生き生きと語られており、ロダンではない、自分自身の作風を打ちだそうとしている様子がうかがえます。

『おしゃべりな女たち』または『話し好きな女たち』『打ち明け話』(1896ごろ)© musée Camille Claudel, photo Marco Illuminati

その手紙のなかで触れていた作品のひとつがこちら。1896年のもので『Les Bavardes (おしゃべりな女たち)』『les Causeuses(話し好きな女たち)』あるいは『La Confidence(打ち明け話)』と題されています。夢中になって内緒話に興じる女たちの顔つきをうまく捉えた作品です。

ちなみに、4つ年下の弟Paul Claudel(ポール・クローデル)は、外交官と文筆家の二足の草鞋を履いた人で、外交官時代には、日本や中国にもフランス大使として滞在しました。カミーユはこの弟をモデルにした作品も多く残しています。

女心と自立心の狭間の苦しみ

考えてみれば、カミーユが生きた19世紀後半。女性アーティストの名も聞こえるようになったとはいえ、力仕事の側面もある彫刻の世界で働く女性はまだまだ珍しかった時代です。女性彫刻家として名を成すためのハードルは、カミーユほどの才能を持ってしても、非常に高かったはず。

ロダンに執着する女心と、ロダンと関係なく彫刻家として認められたい思いとに挟まれたカミーユの苦しみは、現代の私たちの想像を超えるものだったと考えられます。

『ペルセウスとゴルゴーネ』(1897-1902ごろ)© musée Camille Claudel, photo Marco Illuminati

ロダンとの決別後、制作された大作『Persée et la Gorgone(ペルセウスとゴルゴーン)』は、ギリシア神話を元にしたものです。

蛇の髪をもつメデューサ(ゴルゴーン)が、ペルセウスに首を落とされる有名な場面ですが、このメデューサの顔は、なんと明らかに、カミーユ自身の顔を写しています。どんな思いでメデューサの首に、自分の顔を刻んだのか、この像を見るたび、考えこまずにはいられません。

カミーユは、後半生30余年を精神病院に隔離されて過ごし、フランスがドイツ領下にあった1943年、病院内で亡くなりました。78歳でした。

世界初のカミーユ・クローデル美術館開館

ところで、上述した2年前のカミーユ・クローデル展は非常な反響を呼びました。入場者数はのべ10万人を越え、開催したラピシーヌ工芸美術館の記録を更新したといいます。

それほどの人気にもかかわらず、じつは、これまでカミーユの作品は、多くはパリのロダン美術館、その他は、各地の美術館に点在するのみでした。

ノジャン・シュル・セーヌのカミーユ・クローデル美術館 © musée Camille Claudel, photo Marco Illuminati

ところが、とうとう、2017年3月26日、フランスのNogent-sur-Seine(ノジャン・シュル・セーヌ)に主な作品を集めたカミーユ・クローデル美術館が誕生することになりました。

ノジャン・シュル・セーヌは、パリのセーヌ川のずっと上流、方向で言えば、南東部にある人口6,000人ほどの町です。カミーユが、12歳から15歳という子ども時代を過ごし、彫刻の才を現した場所でもあります。

激しい情熱は、カミーユ自身を苦しめもしましたが、傑作を生みだす力も与えました。

その作品群が、「ロダン美術館」ではなく「カミーユ・クローデル美術館」に並ぶことを知れば、カミーユの魂も、いくぶん慰められるのではないかという気がします。

[Musée Camille Claudel, Rodin L'exposition du centenaire (ロダン、100周年記念展覧会)]

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