掻き消された声を語り継ぐ男と男の物語──映画『犬王』が伝える...の画像はこちら >>



Text by 後藤美波
Text by 水上文



湯浅政明監督の新作アニメーション映画『犬王』は、室町時代に世阿弥と人気を二分したと言われるも作品が一切現存していない実在の能楽師・犬王をモチーフにした作品。数多の亡霊たちの存在を感じながら、「俺たちはここにいる、我々の物語を消させはせぬ」と叫ぶ犬王は、何を伝えようとしているのか。

『犬王』と同様にサイエンスSARUがアニメーション制作を手がけ、『犬王』の原作者・古川日出男の現代語訳をアニメ化した山田尚子監督『平家物語』との違いとは。



私たちはここにある。



どれほど否定されようとも、私たちはたしかに存在している。物語がここにある。



アニメーション映画『犬王』とは、私たちが、現在も、過去も確かに存在している/いたことを、力強く訴えかける物語である。権力に翻弄されながら、それでも互いを支え合い、自らの名を手放さず、抹消に抵抗した男と男の物語である。



ただ現在をすくい取るだけでは足らない。過去を描くだけでも不足である。現在も過去も、どちらも必要だ。私たちは亡霊とともにあらなければならないのだ。



掻き消された声を語り継ぐ男と男の物語──映画『犬王』が伝える「私たちはここにある」

『犬王』 ©2021 “INU-OH” Film Partners



ともすれば失われてしまう「私たち」の物語を語り継がねばならない——この映画の製作陣は、極めて強力な布陣である。



何しろ監督は『夜は短し歩けよ乙女』『映像研には手を出すな!』の湯浅政明、脚本は『アンナチュラル』『MIU404』の野木亜紀子、キャラクター原案は『鉄コン筋クリート』『ピンポン』の松本大洋である。

主人公・犬王を演じるのは「女王蜂」のアヴちゃんであり、琵琶法師・友魚を演じるのは俳優の森山未來、音楽は大友良英である。圧倒的だ。



そして作品は、この強力な布陣に寄せられる多大な期待に、見事応えるものなのである。



物語の舞台は室町時代、いまから遡ることはるか600年前。



主人公は、人気を誇りながらも後世にその謡曲がひとつも残らなかった実在の能楽師・犬王である。犬王は残らなかった——だが時を遡り、『犬王』はその生を蘇らせる。



知られざる室町時代のポップスター、犬王——彼の人生を、彼の無二の友を描くこの物語は、狂騒のミュージカルアニメーションであり、眩いばかりのロックオペラである。



それは「ポップスター」をめぐる物語なのだ。少数の人だけではない、あらゆる「私たち」を魅了してやまないポップスターを描いているのだ。



掻き消された声を語り継ぐ男と男の物語──映画『犬王』が伝える「私たちはここにある」

『犬王』 ©2021 “INU-OH” Film Partners



だから映画は、古川日出男による原作小説に、極めて大胆なアレンジを施す。



たしかに室町時代を舞台にしながらも、琵琶法師である友魚は琵琶をギターのようにかき鳴らす。能楽師である犬王は現代的なあらゆる踊りを取り入れ、ロックンロールを歌う。

蛍光色のネオンがきらめく。観客は手拍子をし、コールアンドレスポンスさえ湧き上がる。さながら野外フェスである。



すべてはいかにも現代的である。それは必要なアレンジだった。なぜなら「いま」の私たちに届けるためにこそ、過去に、そして現在にも存在する、掻き消されてしまう人々に注意を促すためにこそ、この物語があるのだから。



音と映像の奔流に満たされる映画『犬王』は、まるで夢のように美しい。



夢、そう、採用されるのはリアリズムではない。事実をそのままに映し出すというよりは、人々がどれほど美しい夢を見たのかを再現するのだ。



それは単なる表現技法の問題に留まらない。



どれほど客観性を標榜しようとも、歴史記述がしばしば「勝者/権力者から見た物語」になることはままある。だからこの作品は、「個人から見えた世界」を描くのだ。



掻き消された声を語り継ぐ男と男の物語──映画『犬王』が伝える「私たちはここにある」

『犬王』 ©2021 “INU-OH” Film Partners



たとえば作品は、視力を失った友魚の世界を再現しようと試みる。音によって空間/存在を把握する、そんな彼の世界との関わり方を、映像化するのだ。



あるいは、仮面越しの、穴から覗き込まれる世界も、作品では幾度となく描かれる。非典型的な姿で生まれ落ちたために、つねに仮面をつけている犬王の世界が再現される。



勝者による「正史」ではない、個人から見えた世界をこそ、この作品は描くのだ。



もちろんそれは、アニメーションだからこそできる表現である。



映像表現の可能性を徹底して追求するこの作品は、その危険性にも敏感である。



だから映画は、原作小説に大胆な改変を施してもいた。



というのも、原作小説では、犬王は芸を極めることで「醜い」容姿から「美しい」容姿になると語られていた。「究極的な美の追求」にまつわる恐ろしさも描くこの物語においては、美醜の二項対立は、重要な要素のひとつであったのだ。



だが、小説では「醜い」と書いて済むところ、映像表現では、醜さとは具体的にどのような姿形を言うのか、描かなければならない。それはひどく恐ろしく、残酷なことでもある。

否定され、貶められる姿形を、映像表現はつくり、名指してしまうのだから。



掻き消された声を語り継ぐ男と男の物語──映画『犬王』が伝える「私たちはここにある」

『犬王』 ©2021 “INU-OH” Film Partners



だからアニメーションでは、原作小説にあったこの二項対立が周到に取り払われていた。



仮面の下に何があるのかと問われた犬王の応答は、美と醜の二項対立をまさに打ち崩すものである。原作小説にはこのシーンは登場しない。だが映画にとって最も重要なシーンのひとつである。この映画は、人が外見によって否定されてしまう事態を拒絶しているのだ。



それは表現手法への思慮に、映像表現としての倫理にほかならない。



掻き消された声を語り継ぐ男と男の物語──映画『犬王』が伝える「私たちはここにある」

『犬王』 ©2021 “INU-OH” Film Partners



さて、そんな映画『犬王』とは、男と男の物語である。



主人公である犬王は「究極的な美の追求」に取り憑かれた父に捨て置かれ、仮面を外し人に見せれば悲鳴をあげられてしまう姿をしていて、名を呼ばれることさえなかった子であった。一方の友魚は権力争いのために父を、視力を失った子であった。



視力を持たない友魚は犬王を恐れない。犬王にとっては、彼を忌避しない初めての人間が友魚だった。

そして初めから父に見捨てられていた犬王は、自分で自分を名づけるのだと友魚に言っていた。父を早くに失い、父からの精神的自立をうまく成し遂げられずにいる友魚にとって、自ら名づける犬王とは光であった。



彼らは、自分に最も欠けていて、最も重要なものを、互いに与え合ったのである。



掻き消された声を語り継ぐ男と男の物語──映画『犬王』が伝える「私たちはここにある」

『犬王』 ©2021 “INU-OH” Film Partners



犬王が舞う、犬王の巻を友魚が琵琶で語り継ぐ。友魚の琵琶で物語は広められる。



友魚にとって、犬王の巻を歌い伝えることこそ、自らの道であり、最も重要なことである。そして失われた物語を拾う友魚の琵琶で、父に捨てられた子である犬王も救われる。



父を失った彼らは、互いの芸術に賭けた。支え合い、無二の存在となる男たちの物語なのだ。



実際、『犬王』のテーマのひとつは、父の喪失を乗り越えることである。



舞によって呪いを解かれていく犬王の姿は、父から解放され、自分自身になる過程である。



また友魚は映画のなかで二度名前を変える。

それは父に与えられた名前を捨て、父のように彼を新たに保護してくれる座を捨て、「自分で自分を名づける」に至る試みである。



掻き消された声を語り継ぐ男と男の物語──映画『犬王』が伝える「私たちはここにある」

犬王の父(津田健次郎) ©2021 “INU-OH” Film Partners



室町時代の「名前」をめぐるこうした描写は、現代でも、たとえば婚姻によって苗字を変える——多くは女性——ことなどを念頭に置けばわかりやすいだろう。名前は単なる記号ではない。それは誰にも帰属しない自分自身の存在証明なのだ。



だから『犬王』は、父を継ぐ息子に課せられた枷を破壊し、血縁ではない個人としての掛け替えのない絆を手にする男たちの物語である。



もちろん、彼らは自らの父を乗り越えたとしても、全くの自由になれるわけではない。



描かれるのは彼らが「天皇」「将軍」という権力者によって翻弄される様であり、男たちによって独占される権力ゲームのなかで、ひとたび弱い立場に置かれたときの恐ろしさである。



掻き消された声を語り継ぐ男と男の物語──映画『犬王』が伝える「私たちはここにある」

友魚の父(松重豊) ©2021 “INU-OH” Film Partners



とはいえ、権力や父に象徴される「家」の支配にしても、男性と女性では違いがある。



現代の婚姻制度と姓の問題に象徴的なように、個人の努力や意思とは別の次元で、制度が私たちを縛っている。能は長いあいだ女性には開かれていなかった。いまなお女性は、父の姓でなければ夫の姓に帰属することが一般的である。



映画『犬王』のようには、女性の物語を語ることはできない——だから山田尚子監督によるアニメ『平家物語』は、犬王と友魚のようにはいかない女性たちが、彼らとはまったく別の仕方で自らの人生を生き抜く様が描かれてきたのだ。



古川日出男による現代語訳『平家物語』を原作とするこのアニメーションの主人公のひとりは、建礼門院徳子である。



時の権力者、平清盛の娘として生まれた彼女には、犬王と友魚のように自らの芸術を追求する道は与えられていなかった。父=権力の軛(くびき)から逃れる術はなかった。彼女は天皇に嫁ぎ、その子を産み、平家の没落に伴うさまざまな辛酸を嘗める。



けれども限定された環境で、それでも「泥のなかでも咲く花になりとうございます」と毅然と言い放つ人こそ彼女だった。選びようのない運命だとしても、ただ受け入れるばかりが道ではない。自分で自分を名づけることはできなくても、彼女はいついかなるときも徳子であった。



ほかならない自分の人生を生き抜く様を、アニメ『平家物語』は描いていたのだ。



この意味で『犬王』と『平家物語』は、父に象徴される権力構造の内側と外側をそれぞれ描いている。前者は父を乗り越えねばならない息子たちを、後者は父から解放され得ない娘たちを、各々掬い取っているのだ。



そして映画『犬王』のもうひとつの重要性は、クィアネスである。



たとえば犬王は、仮面の下の姿も含め、本質/仮装の二項対立も崩していた。それは異性愛と性別二元性を「本質」と僭称(せんしょう)する規範に対する、クィアな戦略と並走しているのだ。



また映画では、友魚が人々に「遊女の格好をしている」「髪が長い」ために「好色」で「けしからん」とそしられるシーンも描かれていた。それはジェンダー規範に従順ではない友魚のクィアネスを示唆するものでもある。



掻き消された声を語り継ぐ男と男の物語──映画『犬王』が伝える「私たちはここにある」

『犬王』 ©2021 “INU-OH” Film Partners



全てはただ過去にあるのではない。



私たちはここにある、と語る『犬王』はだから、現代の光景を映すところから始まるのだ。



名もなき者の物語を語ることは、掻き消された人々を掬い取ることであり、同時に、いまなお掻き消されてやまない数多の人々に注意を促すことでもあるのだ。



掻き消させはしない。物語はそのためにある。



私たちはここにある——ここに、過去の亡霊とともに、続いていく人生を生きるためにこそ。

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