Text by タケシタトモヒロ
Text by 生駒奨
Text by 白鳥菜都
「家族」というつながりは独特な関係性だ。自らの意志に関係なく、否が応でも暮らしや考え方に影響を与えてくる。
父、母、子どもの3人という一見ステレオタイプな構成の家族にも、外からは見えない多面的な苦しさやその家庭固有の問題が存在する。そんな現実を見出し、描き出したのが、小説『くるまの娘』だ。
物語の主人公は17歳の女性、かんこ。真面目なのにときどき家族に暴力を振るったり暴言を吐いたりしてしまう父、脳梗塞で倒れてから感情のコントロールが利かなくなった母との3人暮らしだ。兄と弟は、そんな家庭に嫌気がさし、気がついたら家から出ていっていた。そんな家族が父方の祖母の死をきっかけに久しぶりに集まる。父の実家への長い道中、車中泊で旅をするのだが……。
作者は2021年に『推し、燃ゆ』で『芥川賞』を受賞した作家・宇佐見りん。3作目となる本作に込めた思いを聞いた。
ー昨年、『芥川賞』を受賞された際のスピーチにて、次回作のテーマはもう決まっているとおっしゃっていましたね。
宇佐見りん(以下、宇佐見):今作の構想を始めたのは、前作『推し、燃ゆ』の改稿作業の最中でした。『推し、燃ゆ』は自分にしてはポップな、リズム優先の文体で書いていたのですが、形式も含め自分が本当に書きたいものは別にあるという思いが強かった。それで、『くるまの娘』では、自分の腹の底にあるものを自分らしく書こうと思い、執筆に着手しました。

宇佐見りん(うさみ りん)
1999年、神奈川県生まれ。2019年、『かか』で『文藝賞』を受賞しデビュー。同作で『三島由紀夫賞』を受賞。2020年に刊行された『推し、燃ゆ』では『芥川賞』受賞を果たした。
宇佐見:まず頭にあったのは、家族の話を書きたいということです。家族というひとつの集団を描き切ることができれば、自分にとって解像度の低いたくさんの人々を登場させるよりもはるかに大きな問題に立ち向かうことができると確信していたからです。そのなかで、まずお母さんが「しんじゅうする。」とハンドルを握って踏み出す場面が浮かびました。それから、最後の父子で隣り合っている場面も浮かんで、車というモチーフが決定しました。
ー作品を読んで、家族も車も動きはあるのに中は外からよく見えない、密室性が似ているなと感じました。タイトルでは「くるま」、文中では「車」と使い分けがされているのも印象的でした。
宇佐見:そうですね。物語のなかで家族の歴史を辿っていく流れと、車の移動する流れを比喩的に並べて多角的に見ることもできるモチーフだなと思って選んでいます。
タイトルを「くるま」とひらがなにすることは初稿の段階から決めていました。本文中の「車」は物理的な車を示していることが多いのですが、タイトルはもう少しいろんな意味を持たせたかったんです。家族というものを運んできた「くるま」であり、悩みや関係性、怒りや涙といった感情を内包した「くるま」であり、地獄へと人を運ぶ火車(※)のようなイメージもありましたね。
ー『くるまの娘』は、過去作に比べると客観性の強い、三人称的な視点で描かれた作品かと思いましたが、どんなことを意識されていましたか。
宇佐見:過去2作品は、若い女の子の内面を掘り下げる作品だったのですが、今回はいままで「理解のない人たち」として描かれていた人物たちももっと立体的にしていきたいと考えていました。
『推し、燃ゆ』の感想のなかで目立ったのが、「このお父さんは理解がないね」とか「家族の理解があればなあ」といったものでした。

ー登場人物のなかでもとくに、父の人物像は1番過去作との違いを感じました。例えば『推し、燃ゆ』では、ほとんど家におらず帰ってきたときには無神経な発言をする、ネガティブな面が強調された父親像が描かれました。一方『くるまの娘』の父親は、その過去や細かい癖など、より「人間らしさ」「複雑さ」が描かれています。今作ではどのように父親のキャラクターをつくり上げていったのでしょうか。
宇佐見:お父さんのキャラクターは何回か改稿を重ねて掘り下げていって、編集さんと相談しながらつくり上げましたね。
ー多面性という点では、祖母のキャラクターも不思議な存在に感じました。かんこにとっては優しいおばあちゃんで、かんこの父にとっては顔も見たくない苦手な母親。父よりもさらに多面性を感じるキャラクターでした。
宇佐見:私のなかであの祖母は伝聞のキャラクターでしかないんですよね。作中の描写も、かんこが親戚たちから聞いた「こういう人だった」「ああいう人だった」という伝聞と、かんこのなかのすごく曖昧な記憶しかないですよね。
だから、本当はどういう人なのかわからない人物だと思っています。父にとっては苦しみの思い出と一緒に出てくる人、かんこにとっては「あんたはかしこくなる」と語りかけてくれた祖母、他の親戚から見たら気ままな人とか、イメージには振れ幅があると思うんです。他人から見た人格って統一されていなくて、人が語る歴史のなかで形成されていく人物像というものもあるのではと思いながら書いたキャラクターですね。

ー弟がかんこに対して、過去にかんこによって傷つけられた出来事を告白するシーンにはハッとさせられました。加害・被害の関係性も人によって見え方が変わるものだと思ったのですが、あのシーンはどんな思いを込めて書かれましたか。
宇佐見:もともと、主人公の加害性ありきで書こうと思っていました。家族に限らず「やられた方は覚えていて、やった方は覚えてない」といろんなところでいわれていますが、私はそれが加害と被害の構図だなと思っています。例えば、Twitterなどでよく「うちの親はこんな感じでした」と被害体験を描くようなエッセイ漫画にたくさんのいいねやリツイートがついているのを見かけます。一方で、当たり前かもしれませんが、「私、こんな加害しちゃいました」なんて漫画は流れて来ないですよね。

宇佐見:いいねやリツイートした何万という人が、自覚の有無は別にして、加害を一切していないということはないと思うんです。被害者と加害者が半々ずついるのではなく、被害者的な側面と加害者的な側面がベン図のように重なっている、そのなかにいる人も大勢いる気がします。必ずしも皆が両側面もあるとはいえないんですけれど。
そんな傷つけ合いが、子どものから積み重ねられていったのがかんこの家族の陥っている状態でした。家族のなかで子どもはどこから責任とればいいのかとか、「あのときはしょうがなかったのかな」とか、「でも、このことは傷ついた」とか、そういうものが長い付き合いのなかで引きずり出せないくらい煮込まれてしまっている。その状態で自分の解釈で家族の歴史の話を持ち出したら話がずれるのに、持ち出してこじれていってしまうのがあの一家ですよね。
ーでも、兄や弟とは対照的に、かんこは「助けるなら全員を救ってくれ」と言って1人では家族から抜け出さないですよね。
宇佐見:まず、いろんな選択があって、どの人の選択も良い・悪いという判断はできないというのが念頭にありました。それを前提としたうえで、かんこが実家に残るのはかんこが特別優しいからではなくて、家族というものに対して、「相手が苦しんでいると自分も苦しくなってしまう」という性質があるからだと思います。
だから、カウンセラーや先生、友達に相談して、一部しか説明できていないのに「逃げたほうがいいよ」「いつかは1人で」といわれても、それは難しいわけです。家のなかで耐えることも出て行くことも、同じくらい傷つくからですね。両親を残していなくなることに苦しみを感じるから、結局自分を守るためにも、いまの場所にいたほうがいいんだっていう結論になっているわけです。兄も弟もかんこもみんな自分の心のことを考えた結果、そういう選択になっているんじゃないかなと思います。
ー最初にイメージが浮かんだとおっしゃっていた心中のシーンですが、結局は心中せずに生きる選択をしていましたね。
宇佐見:作中では心中ギリギリのように書いていますが、「しんじゅうする。」と言ったお母さんがどの程度本気だったのか誰にもわかりません。私も作品世界に生きる人物のことを完全に理解している感覚はないので、本当のところはわかりません。
ただ、この作品では心中してしまうような苦しみではなくて、心中しそうになってもしない、できない、あるいはそういう場面に何度もさしかかっては日常に戻ってきてしまうことの苦しさを描きたかったので、ああいう展開を選択しました。そのふたつには全然別の苦しさがあると思います。終わらない苦しみもあるし、終わってしまってもう過去に戻ることができないという苦しみもあると感じています。

ーかんこが両親のことを「親であり子どもなのだ」と表現しているのも気になりました。1作目の『かか』とも共通するような親子の関係性があるように見えたのですが、宇佐見さんのなかで親と子の違いはどこにあるのでしょうか。
宇佐見:その感覚は、ずいぶん前から私のなかにありました。書くぞ書くぞと思って書いてるわけではないのですが、自然に出てきたなという感じです。
私よりも少しだけ年上の世代の方たちから少しずつ出産したという話を聞くようになりました。でも、その人たちがなにか特別な力を授かって親になるわけでもない、親になったからといって突然強くなれるわけでもない。私は親になったことがないので正確なことはわかりませんが、親になったからといって人は子どもの立場にあったときから、さして変わらないはずだと思います。
親という立場にある人を「親である」ととらえてしまうと「できて当たり前だ」と思われてしまうことがたくさんあると思います。自分のこともやりつつ、人を育てるのは本当にすさまじいことで、心理的にもかなり負担がかかることだろうに。だからこそ私は、自分がいっぱいいっぱいになって、結果子どもにあたってしまうかもしれない、虐待してしまうかもしれないという可能性を熟慮した上で、その可能性が減らせるように何遍もシミュレーションしてから親になるのが義務だと考えています。そこまでしても、思いもよらない要因で困難に陥ってしまうこともあるのが人生ですが。ちなみに私は、自分のことも信用ならないし、そうでなくても外部からの暴力で子どもが傷つく可能性を考えるとつらいと思うので、親になる予定はありません。
長くなりましたが、『くるまの娘』の作者である私の考えからいっても、本来親は子どもを親にしてすがってしまっては、いけないんですね。肯定される暴力もないでしょう。でもそれが難しい親子がいる、取り返しがつかなくなっている場合には、子どもが親を「親であり子どもだ」ととらえることもある。決して健康な状態ではありません。そんなことは百も承知で、それでもそう思うから守りたいんだ、逃げ出すのは痛いから逃げたくないんだ、全部まるごと救えないのなら私はここに残るというのが、小説のなかの人物のほんものの叫びです。小説はときに、作者の思想や倫理観をとびこえます。その叫びが書かれるところに立ちあえて、私はよかったと思っています。
ー今作もさまざまなところで反響があったかと思いますが、印象的な反応などありましたか。
宇佐見:今回、書店員さん向けの読書感想会をしていただいて、いろんな感想を聞くことができました。もちろんみなさん境遇は違うんですけど、それぞれ自分の体験と重ね合わせて話してくださいました。こういう会は初めてだったので、新鮮でした。
今作はものすごく「流行る」みたいな読み方よりは、一人ひとりがじっと読んでくださる作品だなと感じています。いままでは若い読者さんが多かったのですが、今回は私とは世代の離れた方から「うちにも娘がいて……」とかって感想を聞くこともあって、そういう読み方もあるのかと私にとっても発見がありました。

ー『くるまの娘』は「流行る」作品ではないとのことですが、どんなふうに読んでほしい作品ですか。
宇佐見:ゆっくり自分のタイミングで読む小説なのかなと思っています。「なんか売れているらしいよ」と手に取って焦って読むのではなくて、積読しておいてもいいのでゆったり構えて読んでもらえたらうれしいです。
ー今作でも過去作とは異なる深みや広がりのある作品になっていたかと思いますが、今後はどんな作品に挑戦したいですか。
宇佐見:今回の作品でずっと書きたかったものは出し切ったなという感覚があります。次回作では主人公は10代後半の女の子でというのは一度やめて、全然違う立場の人を格闘しながら書いているところです。当然いままでより想像力を使いますし、たくさんの文献にも当たらなければいけない。でも、ここまで言葉を尽くして3冊を書いたことによって、自分の作家としての倫理観といいますか、あるひとりの人物を少ない行数や頁数で描くときにも、そこには何冊分もの人生があるのだという重みを知れたのがよかったと思っています。今度の小説は長編で、まったく違った世界を見せられるはずです。ぜひ楽しみにしていてください。
