Text by 今川彩香
Text by 村上由鶴
『再開館記念『不在』―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル』が、東京・丸の内の三菱一号館美術館で開かれている。本展は、フランスを代表するアーティスト、ソフィ・カルと、同館のコレクションの中核をなすロートレックの作品が、空間をわけて展示されている。
テキストや写真、映像などを組み合わせた作品を数多く発表し、大胆な作風で鑑賞者の心や倫理観を揺さぶるソフィ・カル。著書『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社新書)などで知られる写真研究者の村上由鶴は、現代美術に強く惹かれるようになったきっかけのひとつとして、カルの作品をあげる。
今回は、そんな村上に本展を見てのレビューコラムを寄稿してもらった。本展におけるカルの作品に焦点を当て、その背景や真意を読み解く。さらに、展覧会名の「不在」をキーワードに、カルの作品における「不在」について紐解いていく。
彼女の作品を見るとき、いつも決まって感じることがある。「本当なの?」か、あるいは「これってなんか……いいの?」である。
ソフィ・カルは、写真とテキスト、映像、オブジェなどを組み合わせ、エピソードや物語を提示するコンセプチュアルな手法で作品を発表するフランスの現代美術家である。その作風は虚実の曖昧さを盾に他者の繊細な経験やプライベートな状況に踏み込んでいるようにも見え、静かでロマンティックではあるが同時にちょっと「迷惑系」のようでさえある。本稿では、三菱一号館美術館で開催されている『再開館記念『不在』―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル』の出展作を中心にカルの作品を振り返る。
ソフィ・カル
1953年、パリ生まれ。
三菱一号館美術館の『再開館記念『不在』―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル』は、同館のコレクションの中核をなすロートレックの作品とソフィ・カルを併置させ「不在」というテーマで接続させた展覧会である。
本展は、2020年に開館10周年記念展として企画されていた『1894 Visions ルドン、ロートレック』にカルが参加する予定になっていたことに端を発する。しかし世界的な新型コロナウイルス感染症の流行によってカルの来日は見送られることとなり、したがって本展は、三菱一号館美術館においてははじめての現代アートのアーティストの展覧会となった。
本展の見どころはまず、三菱一号館美術館の収蔵作品であるオディロン・ルドンによる巨大なパステル画『グラン・ブーケ(大きな花束)』に呼応するカルの『グラン・ブーケ』だろう。

オディロン・ルドン『グラン・ブーケ(大きな花束)』、1901年、248.3×162.9㎝、パステル/画布、三菱一号館美術館蔵
カルは、美術館のスタッフやそこに携わる人々に(あるいは美術館を訪れる客にとっても)記憶のなかにだけ存在している状態が常であるルドンの『グラン・ブーケ』について尋ねた。本作は、そこで聞き取ったテキストがライトボックス(※)で展示されており、それを読んでいると、ルドンの『グラン・ブーケ』のイメージが思い出したように点灯するという作品である。
「初めてこれを見た時、綺麗さのあまり涙してしまった」、「パワー、意志、存在を感じる」、「明るく平和な世界」と、パステル画への好意的な語りが大半を占めているが、カルの作品の特徴は、そのような肌あたりのなめらかな言葉に終始しないところにある。「『グラン・ブーケ』の花には死の香りが漂う」とか、「この絵から思い起こすものは何もない」といった暗さやざらつきを感じさせる語りを、明るい花束のイメージに重ね、カルはルドンの『グラン・ブーケ』および三菱一号館美術館という場所を、本展の「不在」というテーマに強く引き寄せている。
ところで、本展のタイトルに冠されている「不在」は、ロートレックやカルに限らず現代美術においては多くのアーティストがさまざまな方法で扱ってきたテーマである。例えば、ベッドシーツによったしわで愛する人の喪失を表現したフェリックス=ゴンザレス・トレスや、クリスチャン・ボルタンスキーの古着の山などはその代表的な例だろう。河原温のアーティストとしての生涯および存在はそれ自体が不在を体現していたと言っていいかもしれないし、2018年に余命宣告を受けてからも制作を続け2019年に亡くなった佐藤雅晴のアニメーションのなかで鳴りつづける電話も誰かがそこに「いない」ことを否応なく感じさせた。そして、これらの作品における「不在」ははっきりと死の気配を感じさせるという点で共通している。
こうしたアーティストたちと比較すると、ソフィ・カルの作品における「不在」は、幾分、皮肉めいていると感じざるをえない。もちろんカルの作品のなかにも死を感じさせるものがあるが、『グラン・ブーケ』のように必ずしも生死に直接的に関わるものではない場合が多く、喪失の感傷に浸るというよりは「不在」を遊んでいるようである。
不在と戯れている例としては『グラン・ブーケ』と同様に、『あなたには何が見えますか?』や『監禁されたピカソ』など、美術館における「不在」を扱った作品がそれに当たるだろう。
『あなたには何が見えますか?』は、美術館での作品盗難事件に着想を得て、盗難にあい、空になった額縁だけをその作品がもとあった場所に置き、その額縁のなかに「何が見えるか」をカルが来館者や学芸員、警備員らに尋ねたという作品である。
また、『監禁されたピカソ』はコロナ禍でのピカソ美術館の休館中に、作品保護のため隠されたピカソの絵画を撮影した写真作品であり、2023年、ピカソ没後50周年を記念するアーティストとしてピカソ美術館に招聘され、ピカソ美術館でピカソの「不在」を強調した。ちなみに本作はピカソという美術史上の巨人と、彼への固着した評価を無批判に信頼し、価値あるものとして賛美する権威主義への抵抗と読み解くこともできる。

ソフィ・カル『パブロ・ピカソ「浴女たち」、1918年夏』(『監禁されたピカソ』シリーズより)、2023年、写真/額 Installation photo : Claire Dorn, courtesy of the artist and Perrotin ©Sophie Calle /© ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 G3754
加えて、カルの代表作のひとつである『盲目の人々』では、目が見えない人に「あなたにとっての美しいものとはなにか?」と問い、その答えを記録した。この作品では、この問いへの答えがテキストとして展示され、それに対応するものや光景の写真と目の見えない人のポートレートが添えられている。ちなみに、カルの作品には失明した人に「あなたが最後に見たものはなにか」と尋ねるというシリーズも制作している。
これらの作品はいずれも、「ないもの」を見ろといったり、見どころを見えなくしたり、あるいは、ない(かもしれない)経験について語ることを強いているようなもので、いくら作品とはいえ「これってなんか……いいの?」と、鑑賞者の倫理観に触れてくる(そして「本当なの?」とも感じる)。特に『盲目の人々』のプロジェクトには「なんて残酷なことを」と、感じる人もいるだろう。実際、『盲目の人々』を構成するポートレートは、目が見えない人の目や、カメラ目線には決してならない視点といった、身体的特徴を強調するものとなっている。
しかし、この作品たちは、鑑賞者のなかにある美や美術における視覚偏重の傾向を指し示してもいる。実際、「美しいものはなにか?」と問われた目が見えない人々の答えは、当然のことながら実に多彩だ。著名な俳優の名前をあげる人もいれば、「羊」と答える人もいる。

ソフィ・カル『海を見るー老人』(部分)、2011年、ヴィデオインスタレーション(3分11秒)、映像:キャロリーヌ・シャンプティエ Courtesy of the artist and Perrotin ©Sophie Calle / © ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 G3754
一方で、生まれてはじめて海を見た人が、海を見る光景をとらえた映像作品『海を見る』を見ると、鑑賞者は自分がはじめて海を見たときの感覚を思い起こしたい、と感じるのではないだろうか。しかし、少なくともわたしは、その感覚を、リアリティを持って思い出すことができなかった。
そもそも、わたしがはじめて海を見たのはいつだったのだろう? わたしは感動しただろうか……? 自分の記憶なのに、それを呼び出すことができないこのもどかしさが記憶の不在の手触りなのだろう。このように、カルの作品は摩擦抵抗となって鑑賞者をその問いのなかに引き止める。
ところで、カルがキャリアの初期から作品の一部として用いてきた写真は、ロラン・バルトが「それは、かつて、あった」と言ったように、そもそも写真という媒体自体に「不在」が組み込まれている。写真という媒体は、誰かがかつてそこに存在した証拠であると同時に、その存在がすでに過ぎ去り、そこにいないことを示す。また、カルのオートフィクションの舞台となる美術館は、「不在」の殿堂と言ってもいいだろう。すでにこの世にはいないか、あるいはいたとしても作品だけを、つまり自分の痕跡だけを残して、アーティストはいつもそこにはいないのだ。

ソフィ・カル『北極』(『なぜなら』シリーズより)、2018年、写真/刺繍された布/額 Installation photo : Claire Dorn, courtesy of the artist and Perrotin ©Sophie Calle / © ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 G3754
それでもカルは彼女自身はそこにいなくても、鑑賞者を、単に受動的に作品を眺める存在として扱うことはなく、むしろ積極的にこちらに干渉してくるようである。
例えば、『なぜなら』のように手でめくらせるような作品は、鑑賞者に「めくって見る」ことを強いることで、わたしたちのなかにある(かもしれない)覗き見趣味を露呈させ、ついでにばつの悪ささえ覚えさせる。このように、彼女は鑑賞者に気まずい思いをさせ、倫理的な葛藤を引き起こすことでいつも作品の一部にわたしたちを巻き込むような仕掛けを施している。
カルの作品における「不在」は、挑発的なアプローチを通じて実践されるために、鑑賞者を困惑させるが、その先に視覚や、あるいは存在を超えたヴィジョンを指し示すのだ。