Text by 麦倉正樹
Text by 西田香織
Text by 今川彩香
かんかん照りの、乾いた夏の長崎。坂の多い街を幽霊のように彷徨うのは、幼い子どもを亡くした、どうしようもない悲しみを抱えた主人公。
7日4日に公開された映画『夏の砂の上』で、主演を演じた俳優、オダギリジョーと共演の髙石あかり。映画監督としても活動するオダギリは、本作においては共同プロデューサーも務める。原作はすでに何度も舞台で演じられてきた戯曲で、今回が初の映画化となった。
そんな本作について、オダギリはいわゆる娯楽としての映画とは異なる「読後感」のある映画だと語る。試写を見た帰り道にひとり泣いたという髙石も「わたしが何かをくらってしまったように、間違いなく受け取るものがある映画」と評した。2人にとって本作はどんな存在だったんだろう? ほかでもない「映画」の力とはどんなものだろう? オダギリと髙石へのインタビューから、少しずつ紐解いていく。
取材中、太陽のようにころころと笑う髙石と、月のように静かに言葉を紡ぐオダギリ。物語のなかでの2人の関係性も、俳優としての距離感も、どちらも混在するような空気感があった。今回は、できる限り素の言葉のままでお届けしたい。
—本作の脚本を読んでオダギリさんは、出演を決めると同時に自ら共同プロデューサーの役を買って出たそうですね。
オダギリジョー(以下、オダギリ):そうですね。俳優として出演を決めたのは、単純に脚本が面白かったからなんですけど、それと同時に、これは観てもらうべき作品だなって思ったんです。昨今の日本映画って、残念ながらこういうタイプの作品はつくりたがらないじゃないですか。保険のないリスクを被りたくないから。ただ、自分が名乗り出ることで、少しでもこの作品が成立する役に立てるのであればという気持ちで、共同プロデューサーに名乗り出たという感じです。

オダギリジョー
1976年生まれ、岡山県出身。『アカルイミライ』(2003年)で映画初主演。以降、国内外の映画作品に多数出演し、数々の俳優賞を受賞。テレビドラマも『時効警察』シリーズをはじめ、『大豆田とわ子と三人の元夫』(2021年)、連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』(2021年)など、数多くの話題作に出演。俳優業の傍ら監督業にも進出し、2019年に長編映画としては初監督となる『ある船頭の話』を制作。その年のヴェネチア国際映画祭に選出された。
—髙石さんは本作の脚本を読んで、まずどんなことを感じましたか?
髙石あかり(以下、髙石):わたしはオーディションからの参加だったんですけど、もちろんそれに先立って、今回の映画の概要や、脚本も少しだけ読ませていただいて。それからオーディションに臨んだんですけど、そこで玉田(真也)監督に、「この脚本を読んで、どうでしたか?」と聞かれて、正直に「よくわからなかったです」ってお伝えしたんですよね。
オダギリ:え? 正直ですね(笑)。
髙石:や、どういう話なのかって聞かれると、ちょっと言葉ではうまく説明できないところがあるじゃないですか。それで「よくわからない」と言ったんですけど、そしたら玉田監督が、「そんなに難しいものではなく、すごくシンプルな話ですよ」と言ってくださって。
この話は、主人公の「小浦治」が、いちばん最後にほんの少しだけ成長しているかもしれないという、すごくシンプルな話なんです、とおっしゃって。で、わたしは「あ、そんなにシンプルな話だったんだ」って驚きつつ、そこから自分のなかで脚本の「読み方」みたいなものが、ちょっと変わったところがあって。そういう意味でも、すごく学びが多い作品になったと思っています。

髙石あかり(たかいし あかり)
2002年12月19日生まれ、宮崎県出身。
—本作の原作がもともと戯曲であり、すでに何度も舞台化されている作品であることは、意識されましたか?
オダギリ:そのことは脚本を読んだ段階では知らなかったんです。ただ純粋に、映画の脚本として素晴らしいと感じましたし、玉田さんが映像化したいと思う意図は十分理解できました。舞台表現の限りを越えて、長崎の街でリアルに生きる人たちの奥行きを描くことは、クリエイターとして挑戦したいところだろうと思いました。
—玉田監督は、ご自身でも舞台版の演出をされているなど、本作の内容については熟知されていると思います。実際の現場では、どんなやりとりをしながらオダギリさん演じる主人公「小浦治」、そして髙石さん演じる治の姪「優子」をつくりあげていったのでしょう?
オダギリ:玉田監督とご一緒するのは今回が初めてで、しかも初めて監督にお会いしたのは、長崎でのシナハン(※)の時でした。実際の長崎の街を見て、シナリオを磨き上げていくのがシナハンの目的で、監督と長崎のいろいろな場所を見てまわったんです。そこで、今回の作品や役柄について具体的に多くを話したわけではないんですけど、お互い初対面で話題が少ないなか、長崎の坂道を歩きながら、一緒に目指すべきゴールや「小浦治」像を探っていったというか。実際の撮影が始まる前から、そういう時間を幾度となく持てたのは、すごく良かったと思います。

—まずは、一緒に同じ風景を見てまわるというか、同じ体験を共有したわけですね。実際の現場での玉田監督——演出家としての玉田監督は、いかがでしたか?
オダギリ:すごく真面目で丁寧な方で、役者としっかり話をしたいタイプの監督でしたよね?
髙石:そうですね。それこそ、わたしが演じた「優子」という役は、なかなか掴めないところが多い人物じゃないですか。ただ、そこが彼女の魅力でもあるなって、わたしは思っていて。だから、掴めない役ではあるんですけど、演じるわたしは掴まないといけないと思って、いろいろ考えながら臨んでいて。玉田監督とお話ししたら、「ありのままの髙石さんでいてくさい」って言われて……。
—どういうことでしょう?
髙石:ありのままのわたしというか、それ以前に普段のわたしは、玉田監督に、どう見えているんだろうと思って(笑)。いま思い出したんですけど、実際の撮影に入る前の「本読み」(※)のときに、玉田監督から「髙石さん、ちょっと暗いです」って言われて……。
—えっ?
髙石:たぶん監督が求めているよりも暗い感じで演じていたからだと思うんです。普段のわたしは、自分では結構明るいタイプだと思っていて(笑)。だから、ありのままのわたしということは、それぐらい明るい感じでいいのかなって思いつつ、とはいえ「優子」は17歳なのにちょっと大人びている部分もあるので。だけど、オダギリさん演じる「治」と一緒にいるときは、ちょっと無邪気な部分もある。

—なるほど。
髙石:そこがひとつ、「優子」の掴めないところなのかなって思ったんです。満島(ひかり)さん演じるお母さんの前と「治」の前では違うし、高橋(文哉)さん演じるアルバイト先の先輩と一緒にいるときの「優子」も、また全然違う。そこに一貫性がないから、ちょっと掴めないところがあるのかなって思って。そういうところで、玉田監督と一緒につくっていったのかな、と思います。

© 2025映画『夏の砂の上』製作委員会
—そんな「優子」が、「治」の家に同居し始めるところから物語は動き始めるわけですが、2人の関係性や距離感の変化については、何か話し合ったりしたんですか?
髙石:2人の関係性や距離感については、そこまで監督のほうからの指示はなくて。そう、個人的に印象的だったのは、オダギリさんがわたしに対して「もっとこうしたほうがいいよ」みたいなことをひと言もおっしゃられなかったことで……。
オダギリ:えっ。いや、普通言うんですか、そんなこと?
髙石:わたしは2人だけのシーンをつくっていくうえで、そういうことがあるのかなってちょっと思っていたところがあって。そこはやっぱり、オダギリさんだし……。
オダギリ:いやいやいや。
髙石:(笑)。でも、ホントにひと言もおっしゃられなくて。ただわたしとしては、それを良いふうに捉えていたんですよね。わたしのことをすごく尊重してくださっているのかなって思って。その姿を見て「ああ、やっぱりすごいな……」って思いました。

—そんなオダギリさんをはじめ、先ほど話に出てきた満島ひかりさん、そして「治」の別居中の妻役を演じた松たか子さんなど、共演者は錚々たる方々ですよね?
髙石:そうなんです。だから、現場に入る前は「すごい先輩方とご一緒させていただけるんだ!」って、すごいドキドキしていたんですけど、実際の現場では意外と緊張しなかったんです。それは自分でもすごく不思議なんですけど、初日から自分としては結構馴染んでいたつもりというか、だいぶリラックスしていたように思います。
オダギリ:髙石さんは良い意味でサバサバしているというか、まわりの人たちに気を遣わせないところがあるんですよね。アクションとかもやられているじゃないですか? 体育会系と言えばそうなのか、共演者はもちろん、まわりのスタッフとすぐに打ち解けて、現場に馴染んでくれていたので。ぼくは、すごくやりやすかったです。
髙石:うれしい(笑)。オダギリさんとは、撮影の待ち時間とかで畳の部屋に2人だけでいるみたいなことが多くて。わたしのお芝居についてはほとんど何も言ってくれないんですけど、そういった待ち時間には、オダギリさん、意外とお話をしてくれて……あ、いろいろ思い出してきた(笑)。
オダギリ:えっ、どんな話をしてました?
髙石:いろんなことをお話ししてくれましたよ(笑)。やっぱり、オダギリさんにも、いろいろな過去があって……。
オダギリ:何の話だか全然覚えてないんだけど。でもたぶんここで話すのは、よろしくないと思いますよ(笑)。
髙石:はい、わかりました(笑)。

© 2025映画『夏の砂の上』製作委員会
※以下、本作の終盤の内容に触れる箇所があります。
—話を映画に戻します(笑)。本作に寄せたコメントで、オダギリさんは「昨今の日本映画には珍しい『何か』を感じていただける作品になったと信じています」と書かれていますが、この真意はどのあたりにあるのでしょう?
オダギリ:最近よく思うのは、「読後感」じゃないですけど、映画を見たあとに何を感じて、何が残るのかっていうことなんですね。
髙石:(頷く)。
オダギリ:もちろん、スカッと終わって何も残らない映画というのも、それはそれでいいんだろうけど、自分の人生の「糧」には、なってないなって思って……。
—いわゆる「娯楽」としてはそれでいいのかもしれないけど、そうではない映画もあるのではないかと。
オダギリ:少なくとも自分が好きな映画は、そういうものなんですよね。人生観が変わったり、新しい価値観に気付いたりというほど大きなことじゃなくても、何かが残るような作品になったと思っています。

© 2025映画『夏の砂の上』製作委員会
髙石:今回の作品の最後のほうで「治」と「優子」が水を飲むシーンがあるじゃないですか。
—たらいに集めた雨水を飲んだ「優子」が、キラキラした目で「おいしい!」って言うシーンですね。
髙石:そうです。あそこで、伯父さんも飲みなよって言って、はじめは拒まれるじゃないですか。だけど結局、飲んでみるっていう。その撮影のあと、オダギリさん含め皆さんと一緒にご飯に行ったとき、オダギリさんが「あそこのシーンは、すごく映画的だった」とおっしゃっていて。わたしはその言葉が、ずーっと心に残っているんです。
わたしもあのシーンは、すごく映画的だと思いました。あのセリフを発しているときに、いままでとは違う感覚で、言葉を発しているような感覚があって。なかなか言葉で説明するのが難しいんですけど、オダギリさんの「あれが映画だと思う」という言葉が、わたしはすごくうれしかったし、いまもすごく心に残っているんですよね。

—オダギリさんは、どういう意味で「映画的」と言ったんですか?
オダギリ:いや、全然覚えてないですね(笑)。
髙石:えー、覚えてないんですか? あのときのオダギリさん、めちゃめちゃかっこよかったのに(笑)。
オダギリ:どういうつもりで言ったんでしょうね(笑)。
—(笑)。ただ、『夏の砂の上』という表題との絡みも含めて、あのシークエンスが、この映画の肝であることは間違いないですよね。あのシーンがあるからこそ、本作を見え終えたあと、心に何かが残るという。
髙石:そう、わたしも試写で見たあと、何かくらってしまったというか、帰り道にひとりでいろんなことを考えながら……泣くっていう。
—えっ?
髙石:はははは(笑)。でも、それぐらい、わたしにとっては衝撃の作品だったんです。
オダギリ:そのエピソードは、全部の取材で言ったほうがいいんじゃないですか(笑)。

髙石:たしかに(笑)。でも、それこそ、最初にお話しした脚本の「読み方」じゃないですけど、わたしは「正確に」読もうとしていたというか、この物語が伝えたい意味であるとか、メッセージみたいなものを探しながら読んでいたところがすごくあって。そうではなく、その人の受け取り方次第というか——試写を見たあと、わたしが何かをくらってしまったように、間違いなく受け取るものがある映画だと思うんです。
ただ、その受け取るものが、人それぞれで違うというか、わたしはわたしですごいものを受け取った——それはあくまでも、この年齢で、こういう環境のなかで見た『夏の砂の上』だからなんですよね。だから、何年後かに見たらきっと、また違ったものを受け取るような気がしていて。そうやって、定期的に見るような作品になるんだろうなって思いました。
—いまは年齢的にも「優子」の目を通して物語を見がちだけれど、何年後かは別の人物の視点で物語を見るかもしれない?
髙石:そうですね。先ほどオダギリさんがおっしゃった「糧になる」というのは、まさにそういうことなのかなって思いました。わたしはこれまであまりそういう作品に出会ったことがなかったし、それにわたし自身が出演しているというのも、ちょっと不思議な感覚ではあるんですけど(笑)。

—(笑)。では、最後にオダギリさん、何かひと言、締めの言葉を……。
オダギリ:いやあ、何ですかね……特に何も……ええ、結構です(笑)。
—共同プロデューサーなのに……。
髙石:はははは(笑)。
オダギリ:いや、髙石さんが良い話をしてくれましたからね。何だろうな……そう、さっきの髙石さんの話で、ちょっと思い出したのは、「本読み」のとき、ぼくも監督に「ちょっと暗いです」って言われたんですよ。
—あ、そうなんですか?
オダギリ:松さんぐらいがちょうどいいみたいなことを、監督は言っていましたよね?
髙石:そうですね。「明るさ」という意味では満島さんの感じがすごくいいです、とおっしゃっていました。
オダギリ:だからなんか、ぼくら2人だけ監督が想定していたよりも沈んでたみたいなんですよ。
髙石:はははは(笑)。
オダギリ:ということは、この映画はそういう映画ではないってことだと思うんです。
—なるほど。本作の主人公である「治」が置かれている状況はかなり厳しいものだし、どうしても「欠落感」とか「閉塞感」という言葉を当ててしまいますが、2人のお芝居は決してジメジメした感じではないですよね?
オダギリ:そう。だから、予告編か何かでこの映画のことを知って、ちょっとジメジメした暗い感じの映画なのかなって、思われる方がいらっしゃるとしたら、そこは勘違いしないで欲しいというか——もちろん、いろいろな見方をして欲しいんですけど、暗いものは見たくない!と決めつけて欲しくはないですね。
—そういう暗い感じの映画ではないと。
オダギリ:ぼくはむしろ希望がある映画だなって思っています。止まっていた時計が動き出し、その音がとても心地いいような。だから、是非ともたくさんの方々に見てもらいたいですね。