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Text by 金子厚武
Text by 今川彩香



音楽ライター、金子厚武の連載コラム「up coming artist」。注目の若手アーティストを紹介し、その音楽性やルーツをはじめとする文脈を紐解きながら、いまの音楽シーンも見つめていく。

この第2回目にフォーカスするのは、7月25日から開催される『FUJI ROCK FESTIVAL』「ROOKIE A GO-GO」に出演が決まったyubioriだ。



2ndアルバム『yubiori2』を7月4日、ASIAN KUNG-FU GERATIONの後藤正文が主宰するレーベル「only in dreams」からリリース。このアルバムは、彼らの憧れでもあったという後藤がプロデュースも務めている。そんな後藤の影響も感じさせながら、田村喜朗(Vo,Gt)の表情豊かな歌心がオリジナリティを牽引している、と金子は指摘する。



そして、安易な連帯を持ちかけるのではなく、あくまで「個」の意志で声を合わせてこそ生まれるものがある……そんな想いも、その切実な歌詞から読み解く。連載初回に紹介したkurayamisakaともつながりがあるyubiori、オルタナシーンの盛り上がりやコロナ禍を経験したからこその共通点とともに、紐解いていく。



音楽は好きだけど、最近、新しいアーティストに出会えていない……情報の濁流のなかで、瞬間風速的ではない、いまと過去のムーブメントを知りたい……そんな人に、ぜひ読んでほしい連載です。



「up coming artist」初回は、昨年の『FUJI ROCK FESTIVAL』「ROOKIE A GO-GO」に出演し、今年はRED MARQUEEへの出演が決まっているkurayamisakaを取り上げた。第2回は今年の「ROOKIE A GO-GO」に出演が決まった5ピースバンド、yubioriを紹介する。



『フジロック』ROOKIE A GO-GO選出のyubiori、個を持ち寄るアンセム【連載:up coming artist】

yubiori



2019年に神奈川大学の軽音サークルのメンバーを中心に結成され、東京と横浜を中心に活動するyubioriは、エモやハードコアを軸とした音楽性で、kurayamisakaと同様に2020年代の新たなオルタナシーンで注目を集めるバンド。現在のメンバーは田村喜朗(Vo,Gt)、阿左美倫平(Gt)、東條晴輝(Ba)、中野慈之(Dr)と、昨年10月に加入した大野莉奈(Tp)の5人である。阿左美はkurayamisakaのベーシストでもあって、両バンドは以前から交流があったり、東條と中野もyubioriと昨年スプリット(※1)『under a cloud』をリリースしているAcleのメンバー(東條はAcleではギタリスト)だったりと、それぞれが別のバンドでも活動しているのが面白いところだ。



kurayamisakaとせだいの清水正太郎、downtとくだらない1日の河合祟晶、ひとひらとその感激と記録の山北せななど、周辺にもバンドを掛け持っているメンバーが多くいて、シーンとしての厚みを生んでいることは2020年代の特徴の一つと言えるかもしれない。ただ、僕が思うにメジャーのバンドはともかく、インディのバンドは昔から掛け持ちが多くて、この状況自体は特別なことではないはずだ。それでも、なぜ昔とは印象が異なるのかというと、SNSが浸透して個人でも発信ができ、まだ大きくブレイクしたわけではないバンドでもメンバー個々を追えるようになったという変化が大きい。やはり現代のシーンの盛り上がりにはSNSが必ず絡んでいると言える。



なお、阿左美は今年の『FUJI ROCK FESTIVAL』で7月25日の11:30からkurayamisakaとしてRED MARQUEEに出演し、その15時間半後、27:00からyubioriとしてROOKIE A GO-GOのステージに立つ。阿左美にとっては誇らしくも長い1日になりそうだ。



田村をはじめとしたメンバーは学生時代にbloodthirsty butchersやASIAN KUNG-FU GENERATIONのコピーバンドをやっていたそうで、音楽的なルーツは1990年代から2000年代の日本のオルタナティブなロック。彼らが過去に開催してきた自主企画のタイトルは『圧倒的鈍る皮膚感覚僕を忘れないでよ状態』で、アジカンの“ブラックアウト”の歌詞<鈍る皮膚感覚 僕を忘れないでよ>からの引用だ。「状態」はナンバーガールのライブアルバム『シブヤROCKTRANSFORMED状態』、「圧倒的」はアジカン同様にこちらも横浜出身のバンドであるRADWIMPSの“会心の一撃”の歌詞からの引用ではないかと予想する。



さらにはライブハウスで出会った2010年代のエモリバイバル(※2)以降のバンドたちからも直接的な刺激を受け、現在の音楽性を構築。もともとトリプルギター編成で始まっているので、テクニカルなフレーズやアルペジオを駆使したギターの絡みを押し出しつつ、リズム隊がしっかりボトムを支え、パンキッシュなナンバーからスケールの大きなバラードまでを横断する曲調の広さも魅力的。また、田村が描く心象風景に寄り添うように1曲のなかでもリズムが大きく変化し、ときにプログレ(※3)ばりの大胆な展開を見せるのはポストハードコア的だと言っていいだろう。



そのうえで、彼らの楽曲の最大の特徴が、シンガロング可能な歌メロだ。彼らが活動を開始してすぐに新型コロナウイルスが蔓延し、ライブハウスで声を出せない時期を経験しているわけだが、その反動であるかのように現在の彼らのライブではステージ上のメンバーとフロアのオーディエンスがともに熱量高く合唱をして、ピークタイムをつくり出している。前回のコラムでkurayamisakaの楽曲について、Vaundyの『replica』的な感覚があると書いたが、yubioriの楽曲にはVaundyの“怪獣の花唄”がコロナ禍を経てアンセム(※4)化したことと同様の感覚がある。シーンや規模感は大きく違っても、ここにはたしかな同時代性があるのだ。



2022年発表のファーストアルバム『yubiori』では、学生から社会人になるタイミングでコロナ禍が起きたことによる不安と焦燥を背景に、それでも続いていく日々の生活や暮らしに対する想いが等身大で綴られていた。おそらく横浜の近辺であろう砂浜でミュージックビデオが撮影され、ライブハウスで合唱を巻き起こす現在の代表曲“ギター”の<生活に乾杯 僕たちはそれぞれの場所でこれからも前を向く>というラインには、yubioriの魅力が凝縮されている。



7月2日には、3年ぶりとなるセカンドアルバム『yubiori 2』が発表された。横浜の大先輩であり、憧れのバンドであるASIAN KUNG-FU GERATIONの後藤正文が主宰するレーベル「only in dreams」からのリリース。田村が音源とともに長文のメールを後藤に送ったことがきっかけになったそうで、後藤はアルバムのプロデュースも務めている。



この関係性については、音楽的な親和性はもちろん、横浜近辺の同じ景色を共有してきたことも関係しているだろうし(楽曲からもうかがえる)、収録曲の歌詞では前作からの3年のあいだに社会人として働きながらバンドを続けてきたことの苦悩や人間的な成長が綴られていて、同じく社会人経験のある後藤からすれば、サポートをしたいという気持ちになったのではないかと想像できる。



『フジロック』ROOKIE A GO-GO選出のyubiori、個を持ち寄るアンセム【連載:up coming artist】

yubioriセカンドアルバム『yubiori 2』



そんな後藤の参加によって、yubioriは新作で大きな飛躍を遂げてみせた。オルタナティブな若手バンドが増えることは個人的にも楽しいのだが、その一方で「これだと以前の焼き直しだな」と感じる瞬間が増えていることもまた事実。

そんななかでオルタナの一歩先を提示しているのは、アンビエントやポストロックを吸収し、yubioriと同じ日に「ROOKIE A GO-GO」への出演が決まった雪国や、DJを制作に迎えることでよりエクスペリメンタルな進化を遂げているCruyffといったバンドだろう。yubioriもまた、後藤の助力を得ることで、現在のシーンの一歩先を示す作品をつくり上げてみせた。



特に印象的な曲が2曲あって、一つは5曲目の“春になれば”。フィールドレコーディングによる駅のホームのアナウンスや電車の音から始まり、アンビエント的な広がりのある音像を基調としたこの曲はバンドにとって新境地で、ソロでアンビエント作品を発表している後藤の趣向性が反映されたものだと考えられる。録音、ミックスは梅ヶ丘にあるhmc studioの島田智朗が手がけた。彼は前作でもエンジニアを担当し、せだいやkurayamisakaの音源も手がけるシーンの重要人物の一人。エモやハードコアパンク的な演奏のダイナミズムもしっかり閉じ込めつつ、より静的な方向性でも手腕を発揮しているのは、音像やテクスチャーにこそ時代性が表れる現代においてとても重要だと言える。



もう一曲がミドルテンポでフォーキーな“せめてそれだけ”。前述のように昨年には新メンバーとしてトランペット担当の大野が加入していて、これは『yubiori』のラストナンバーである“つづく”でトランペットを使い(このときは田村が演奏)、その方向性をさらに伸長させたことを意味している。よって、本作では多くの曲で印象的にトランペットが鳴らされているのだが、“せめてそれだけ”はその象徴のような1曲だ。後半ではスティールギター(※5)やシタール(※6)も使われ、混沌とした展開へ移行するなど、後藤のフェイバリットであるWilcoやWhitneyのような、シカゴ産のサイケなインディフォークを連想させるのが新鮮だ。



アンビエントやインディフォークにまでアレンジの幅を広げながら、それでもバンドとしての軸にブレがないのは、田村の歌心に寄る部分が大きい。

前作ではハードコア的なスクリームを聴かせる場面も多かったが、今作ではその要素は控えめで、曲によっては音量も抑えながら、さまざまな声色で表情豊かな歌を聴かせているのが非常に印象的だ。田村の歌唱やメロからは当然後藤の影響も強く感じられるが、彼はいまもDTMではなく弾き語りで曲をつくり、メロディーに関しては槇原敬之をはじめとしたポップスのアーティストを影響源に挙げてもいて、そんな田村の歌心がyubioriのオリジナリティにつながっている。



田村の歌が前に出ることによって、彼のパーソナリティがよりはっきり見えるようにもなった。アルバムの1曲目を飾る“Maxとき”の<魂を一枚づつ剥がして売り飛ばす それで稼いだ金で生き延びる いつまで>や<真夜中 アパートの光が消えない理由を 今の君ならよくわかってるはずさ>といったラインは、この3年の日々のなかで感じた実感の表れだと言えるだろう。“Maxとき”のミュージックビデオがバンドではなく田村一人にフォーカスしているのも、そんな「個」の側面を強調しているように感じられる。



新加入の大野はもともと吹奏楽一筋で、近年は会社員をしていたそうだが、日々忙殺されるなかでふとしたきっかけでインディのバンドシーンにはまり、yubioriのライブに通ったことが加入につながったそうで、ここにも「個」のストーリーがある。最初に書いた「掛け持ちが多い」ということも、バンドの前にまず個人があるという時代感の表れだと言えるし、<朝起きて 働いて 家路を急ぐ たまに君の歌を口ずさんで>と歌う先行配信曲“いつか”のアートワークになっている風景写真も、「それぞれの暮らし」を想起させるものだ。



『フジロック』ROOKIE A GO-GO選出のyubiori、個を持ち寄るアンセム【連載:up coming artist】

yubiori “いつか”



yubioriの楽曲の特徴がシンガロングであることは間違いないが、“ギター”の歌詞をもう一度引用すると、<僕たちはそれぞれの場所でこれからも前を向く>のであり、決して安易にユナイト(連帯)をつくり出そうとしているわけではなく、それぞれの生活こそが人生の基盤だと歌われている。『yubiori』のラストナンバー“つづく”では<当たり前に日々はつづく>と歌われていたが、『yubiori 2』のラストナンバー“rundown”では<ただ日々は続く お前が望めばいつまでも>と歌われているように、やはり重要なのはそれぞれの意志なのである。そして、そんな一人ひとりの想いをライブハウスに持ち寄り、声を合わせて歌うことが、僕と君をつなぎ合わせ、未来を切り開いていく。yubioriと後藤が共有しているのは、何よりそんな皮膚感覚ではないだろうか。

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