Text by 常川拓也
Text by 今川彩香
母国語の復権を掲げてアイルランド語でラップをするヒップホップトリオ、Kneecap(ニーキャップ)。2025年には世界最大級の野外音楽フェス『コーチェラ・フェスティバル』に出演するなど活躍中で、その際パレスチナ支持を表明したことは日本でも話題になった。
映画批評家、常川拓也が映画作品を通して社会を見つめる連載コラム「90分の世界地図」の第3回目は、彼らの半自伝的な衝撃作『KNEECAP/ニーキャップ』をピックアップする。
Kneecapの3人がそのまま本人役で出演している本作は、アイルランドで公開されるやいなや、アイルランド語映画における初週動員歴代1位の大ヒット。世界中の映画祭でも高く評価され、『第97回アカデミー賞国際長編映画賞』ではアイルランド代表作品としてショートリストに選出された。
かつて、イングランドの植民地とされていたアイルランド。それにともないアイルランド語は公的な場から排除されるなど、事実上使えない状況が続いていた。
民族のアイデンティティ形成に、言語が与える影響の大きさとは。そして、言語の復権に「ラップ」という媒体で挑む意義とは? 本作に描かれたKneecapの姿を通じて紐解く。

© Kneecap Films Limited, Screen Market Research Limited t/a Wildcard and The British Film Institute 2024
ヒップホップトリオ「Kneecap」の誕生は、嘘みたいなエピソードから幕開けする。舞台は北アイルランド、ベルファスト。留置所で取り調べを受けるドラッグディーラーが、英語を話すことを拒否。彼が口にするのは英語ではなく、植民地時代に排除され、警察には解せない母語・アイルランド語だけ。

© Kneecap Films Limited, Screen Market Research Limited t/a Wildcard and The British Film Institute 2024
ドラッグディーラーの名はリーアム。押収されたリーアムの日記には、麻薬売買の証拠だけではなく、アイルランド語の歌詞がしたためられていた。それを見初めた通訳のJJは、警察側ではなくニーシャ側につくことを選ぶ。リーアムは幼馴染のニーシャとともに、JJをDJとして「Kneecap」を結成するのである。
グループ名の由来をたどると、1960年代後半から始まり1998年まで続いた「北アイルランド紛争」につながる。北アイルランドを「イギリスの一部として残すか」、それとも「アイルランド共和国と統一するか」をめぐる政治・宗教的な分裂が激化したものだ。アイルランド統一を掲げたIRA(アイルランド共和軍)を鎮圧するため、イギリス軍は北アイルランドに駐留し、銃撃、爆破、暗殺を強行。アイルランド人のアイデンティティも抑圧されていく。
「ニーキャッピング」——それは、北アイルランド紛争下でIRAが行った悪名高い刑罰で、膝付近に銃弾を撃ち込み、殺すことなく生涯にわたって障害を負わせるというものだ。3,500人以上の犠牲者を出した負の記憶を、彼らはあえて背負ったといえるだろう。
停戦後に生まれた若者たちは「停戦ベビー」とされている。
その若い世代に焦点を当て、実在のヒップホップトリオを描いた半自伝的映画が『KNEECAP/ニーキャップ』である。

© Kneecap Films Limited, Screen Market Research Limited t/a Wildcard and The British Film Institute 2024
リーアムとニーシャは、劇中で反権威主義的な姿勢を貫く。それは、ニーシャの父であり、IRA指導者だったアーロ(マイケル・ファスベンダー)からアイルランド語を学ぶなかで受け継いだものだ。
劇中で、アーロは英国当局の目を逃れるために自らの死を偽装して亡命生活を送っている。彼にとって、アイルランド語を使い、維持することは民族的な誇りだった。「言語権の擁護者」といえる彼が、息子たちに教え込んだモットーがこれだ。
「アイルランド語で話されるすべての言葉は、アイルランドの自由のために撃ち出された弾丸だ」
言葉が武器になる。言語が抵抗になる……。Kneecapは、ヒップホップを通してこのモットーを体現していく。

© Kneecap Films Limited, Screen Market Research Limited t/a Wildcard and The British Film Institute 2024
アイルランド独立を求めてハンガーストライキを主導したボビー・サンズを彷彿とさせるアーロ(右)。
言語とナショナルアイデンティティの関係を探求する『KNEECAP/ニーキャップ』を観て想起した、一本のドキュメンタリーがある。在日コリアン二世で、その歴史をライフワークとして記録してきた朴壽南による『よみがえる声』(2025)だ。
作中では、1958年の小松川事件で死刑判決を受けた在日の少年と朴壽南の往復書簡が紹介される。同事件は、当時18歳だったその少年が、同じ学校に通う女子高生を殺害したもの。当時、在日差別を背景にした事件として注目され、大島渚の映画『絞死刑』(1968)の着想元としても知られている。
往復書簡のなかで朴は、通名(日本名)で生きてきた少年にこう告げる。「(私は)祖国も自分の名前も肝心な自分自身さえも奪われっぱなしのまま成長した」。そしてそれは「日本に渡ってきた父や母たちの虐げられた歴史、その生活の中で生まれ育った二世たちに共通した問題」である、と。朴とのやりとりを経て、死刑執行直前に「朝鮮語」を学び始めた少年は、こんな言葉を残したのだった。
「言葉はその国の息吹なのだ。それは最も民族的なもの、いわば民族的な血肉と云えないだろうか」
『よみがえる声』も『KNEECAP/ニーキャップ』も、言語が、民族・文化的誇りやアイデンティティを育む手段であると強調する。
現在、世界には約7,000の言語があるが、そのうち43%にあたる約3,000の言語が来世紀には消滅の危機に瀕しているという。

© Kneecap Films Limited, Screen Market Research Limited t/a Wildcard and The British Film Institute 2024
領土を征服するためには文化を収奪し、文化を消滅させるためには言語を破壊することだ、と言われる。英語も、そして日本語も、「帝国主義が行使してきた抑圧の武器である」という一面を持っている。対して、奪われた母語を再獲得することは、主体性や独自性を取り戻す手段となり、それは入植者による抑圧に抗う道具にもなるのである。
『KNEECAP/ニーキャップ』劇中でJJは、アイルランド語を動物園のガラスケースに閉じ込められたドードー(絶滅鳥類)に喩える。このままでは檻のなかで死に、過去の遺物と化してしまう——。
そのガラスケースを割って、アイルランド語を解き放つのがラップなのだ。

© Kneecap Films Limited, Screen Market Research Limited t/a Wildcard and The British Film Institute 2024
劇中でJJが指摘するように、アメリカでは、公民権運動(※)後に興隆したヒップホップがアフリカ系アメリカ人に発言権を与えた。同様に、アイルランド語のラップも占領者に対する政治的な武器となり、帝国主義への抗議と連帯の声となる。
実際に、抑圧者の言語を拒否したことから始まったKneecapの粗野なラップは、それまで母語に関心を持たなかった若者をも巻き込んでいく。図らずも、彼らが政治運動の先駆者になったのちの2022年、アイルランド語は公用語として正式に認められたのだった。
日本でも沖縄のラッパーが消滅の危機にあるウチナーグチを取り入れるなど、ラップは、世界中で少数言語に新たな息吹を吹きこんでいる。
口承伝承の文化に根付いた歌唱形態であるラップは、危機に瀕した言語を守るツールにもなり得るのだ。
さらに本作がユニークなのは、Kneecapの3人が本人役で出演していることだ。そして、ロンドン西部で生まれ育ったイギリス人監督が本作を手がけたことも意義深い。ジャーナリスト出身の監督、リッチ・ペピアットは、彼らと共同作業で物語を構築していったという。外部の視点を保持した部外者として、コミュニティとその当人たちに深く関わっていくことで、リアリティを追求した映画を共作していく手法は、前回の連載で特集したショーン・ベイカーとも通じるだろう。

© Kneecap Films Limited, Screen Market Research Limited t/a Wildcard and The British Film Institute 2024
これは一般的な音楽伝記映画のアンチテーゼでもある。有名俳優がモノマネ的に演じる回顧的な作品でもなければ、本人が下積み時代を美化して演じる自己神話化でもない。撮影時、Kneecapはまだアルバムすらリリースしていなかった。だからこそ、等身大の彼らを活写できたのではないだろうか。
近年、クリント・イーストウッドやクロエ・ジャオらが手がけるように、当事者がドラマに加わることでフィクションとドキュメンタリーの境界線を曖昧にする映画が続々と生まれている。
例えば、実際の強盗事件を基にした物語に事件を犯した張本人の証言を組み込んだ『アメリカン・アニマルズ』(2018)の監督バート・レイトン、実際の戦地の難民を登場人物に混ぜ込んだ『プライベート・ウォー』(2018)の監督マシュー・ハイネマンにそれぞれインタビューしたことがある。
思えば、ベルリン市民が自らの実生活に基づいたドラマを演じた『日曜日の人々』(1930)やポリネシアの現地住民がメロドラマを演じた『タブウ』(1931)など、映画はその原始から当人の再現とともに民族誌的な真実性を追求してきた。『KNEECAP/ニーキャップ』もそうした真実味を実現するための、映画史上の試みに連なる音楽伝記映画なのである。

© Kneecap Films Limited, Screen Market Research Limited t/a Wildcard and The British Film Institute 2024