Text by ISO
Text by 今川彩香
テレビのなかに入りたい——。つらい現実や嫌いな自分がいる世界を忘れて、人工の光のなかに意識をたゆたわせていたい。
A24制作の本作は、劇中劇であるテレビ番組「ピンク・オペーク」を心の拠り所とする2人のティーンエイジャーの姿を描く。先んじて公開されたアメリカでは、原題である「I Saw The TV Glow」がSNSでトレンド入り。若者が自身の性的なアイデンティティのカミングアウトやそれを語るための言葉としてムーブメントになったという。
監督のジェーン・シェーンブルンは本作の脚本について、自身がトランスジェンダーであると認識し、周囲にカミングアウトした直後、感情のジェットコースターの渦中で書き上げたと語った。そのうえで本作は、トランスジェンダーに限らず、あらゆる人の内面や社会の問題に対して語りかけるものである、とも。それはどういうことだろう? 本作に込めた思いや制作の背景はもちろん、クィア当事者がつくるクィア映画について、そしてそれを取り巻く映画界の現状についても、たっぷりと語ってもらった。

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—人によって捉え方がかなり異なる、とりわけクィアの視点があるか否かで見え方が変化する作品ではないかと感じますが、まずはアメリカで公開後の反応がどのようなものだったのかを教えてもらえますか?
ジェーン・シェーンブルン(以下、シェーンブルン):この映画に出会ったことで、カミングアウトしたり、自身のトランス性(transness)を発見したりした人々から、おそらく何千というメッセージを受け取りました。「I Saw The TV Glow」という言葉が、自身のトランス性や性別移行について若者が語るためのTikTokのトレンドになったんです。まったく意図していなかった事態でしたが、それを知ってとても感動しました。これは、完全に理解していない部分も含めて、正直な言葉で自分自身を語った結果だと思うんです。芸術とは謎を追求することであり、人々に物事を説明するためのものではない。
本作によってアメリカの文化に影響を与えることができて、誇りに感じています。少なくともこの映画は、メインストリームのカルチャーにおいて明確に表現する言葉が存在しなかったものに対して、新たな言葉を与えられたと思うんです。言葉にできなかった感情を表現すること、それを誠実で正直な作品として描くこと、そして他者がその作品から自分自身について学ぶこと——それらは、アーティストとして成せる最もクールなことだと考えています。

ジェーン・シェーンブルン
1987年、ニューヨーク生まれ。2009年にボストン大学の映像プログラムを卒業後、インディペンデント映画の支援活動に携わる。ドキュメンタリー作品『A Self-Induced Hallucination』(2018年)で長編デビューを果たし、続く『We’re All Going to the World’s Fair』(2021年)が国際映画祭で高い評価を受けた。最新作『テレビの中に入りたい』(I Saw the TV Glow)はA24が製作を手がけ、SNSでムーブメントを巻き起こすなど、注目を集めている。
—本作は5部門にノミネートされた『インディペンデント・スピリット賞』をはじめ、世界中の映画祭でも高く評価されていますよね。
シェーンブルン:本作が商業的な娯楽映画でありつつ、挑戦的な側面もある作品だと評価されたことに、とても満足しています。その挑戦的な部分というのが、作品のクィア性か、あるいはアート映画的な映像言語、どちらを指しているにせよ、広く影響を与えると同時に、個人的な芸術作品として成立しているのであればそれほど誇らしいことはありません。ヒーロー映画やブロックバスター(大作映画)が主流のなか、そのような作品を制作するのはとても難しいこと。

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—トランスジェンダーのティーンエイジャーが抱くアイデンティティや性別の違和を物語に落とし込んだ本作には、監督自身の経験が反映されているとうかがっています。もし可能であれば、それがどのような体験なのか教えてもらえますか?
シェーンブルン:この物語を書いたのは、私がトランスジェンダーであると認識し、関わる人みんなにカミングアウトした直後。当時、私は32歳で結婚していました。そして、心の内に秘めていたものを公表することを選べば、これまでの人生は終わるとわかっていました。アメリカのトランスジェンダーコミュニティが「egg crack(卵を割る)」と呼ぶ瞬間、すなわち自分を抑え込むのをやめて「もうわかった。私はトランスジェンダーだ。そのことからは逃れられない」と認める瞬間は、とても恐ろしいものです。なぜなら、トランスジェンダーであることが、自分の人生にとって深くて過酷な変化をもたらすと、直感的にわかっていたから。
それに気付いてしまえば、これまでの人生のあらゆること——例えば子ども時代や昔からの人間関係、生まれ育った故郷(典型的なアメリカ郊外でした)——それらを再構築せざるを得ません。私にとって「ホーム」だったはずのその場所は、同時に私を本当の自分から遠ざけるものであったと気付かされたんです。
こういった体験は、私のように30代でも、それより若くても、「egg crack」を通った人であれば特別なことではないと思うんです。

オーウェンを演じたジャスティス・スミス© 2023 PINK OPAQUE RIGHTS LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
—幼少期から大人になるまで、いろんな年代のオーウェンが描かれていますが、子ども時代に関しても監督の経験や感覚がベースになっているのでしょうか?
シェーンブルン:その通りで、これは私の幼少期や思春期前の経験についても考えながら探求した物語でもあります。幼い頃は、自分が何者で、何を愛しているかなんて、まったく気にしていませんでした。ところが年を重ねて思春期に入ると、社会は私に「こうあるべきだ」と押し付けようとしてくる。それで私は、成長するとはどういうことで、育ったのはどういう場所で、どういう時代なのかと、ひたすら考えるようになりました。そして現実や自分自身から逃避する手段として、テレビのような場所で自分にとって「美しいもの」を探し求めるようになったのです。自分自身を愛することができなくても、フィクションのなかでなら、何かを愛することができました。
私は本作の物語やキャラクターを構想する過程で、そんな経験と向き合っていたようにも感じます。脚本を書いたのは5年前ですが、内面的な危機を感じていたあの当時だからこそ生まれたものであって、きっといまでは書けないでしょうね。
そうした感情をもとに、トランスジェンダーであることに誇りを持ってこの作品をつくりました。

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—先ほど監督が述べた通り、アイデンティティや性的違和に気付く当事者の感覚を描く作品はほとんどなかったように思います。その要因はクィアの物語を映画業界が「異質なもの」として扱ってきたことが大きいのでしょうね。
シェーンブルン:映画史を学んできた映画愛好家かつ映画監督として、これまでクィアの物語が周縁化され、異質なものとして扱われてきたことは、現実に強く感じていました。いつも言っていることなんですが、クリストファー・ノーランは「ただの映画」をつくることができるけれど、私にはつねに「トランスジェンダーの映画」をつくることが求められる。トランスジェンダーであることは私のアイデンティティの一部分に過ぎず、それだけで特定のカテゴリーに収められるのは愉快なことではありません。
私という人間は、変わり者で、ユーモアのセンスもあるし、クリエイティブで面白く、奇妙で不気味なものが大好きなところもあります(笑)。政治的な理念もとても重要な一面です。私の映画は、そういったアーティストとして、そして1人の人間としての、多様性や個性をしっかり映し出すものにしたいと考えています。
ですが、とりわけアメリカでは、映画は営利企業から資金提供されており、彼らが考える「商業的な映画」や「普通の映画」であることが求められる。その裏付けとなっているのが、これまで白人男性がつくってきた数字の良かった映画なんです。

マディを演じたジャック・ヘヴン© 2023 PINK OPAQUE RIGHTS LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
—利潤追求型の業界で本作の企画を進めていくのはとても大変だったのではないですか?
シェーンブルン:この映画の始まりは、とても小さな規模でつくった私の長編デビュー作『We're All Going to the World's Fair(原題)』でした。アメリカの映画業界で長いあいだ働いてきて、その仕組みについて多くのことを学んだ私は、アート系の映画監督になりたいと思い、ほとんどお金もないなか森のなかで友人たちと一緒に制作しました。でも、ほかとは少し違う、独創的で野心的な作品をつくったんです。するとその映画はサンダンス映画祭で初上映されるなど大成功。その勢いをつかって、より大規模で挑戦的な映画をつくるための資金を集められると考え、関係者を説得し資金を調達しました。それでつくったのがこの映画なんです。この世界に存在する意義のある作品にしたいと臨み、実際にそうできたと確信できるこの映画をとても誇りに思います。

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—印象的だったのがタイトルにもある光の描写です。テレビや水槽、自動販売機にパトカーまでさまざまな色の光が登場人物の顔や姿を照らします。本作において光をどのように表現しようと考えたのでしょうか?
シェーンブルン:炎や日差し、月光のような自然光も当たり前に大好きですが、本作では人工的な光を多用しました。それは、テレビ画面を見つめる顔を照らす光や、ガソリンスタンドのネオン、ゲームセンターに溢れる光など、とりわけ暗い場所で輝く人工的な光に、どうしようもなく惹かれるから。
私が解き明かそうとしているのは、私が育った世界でした。私は1990年代のアメリカの東海岸の郊外で育ちましたが、本作はその故郷に場所としても雰囲気としても似たニュージャージーのまちで撮影しました。だからカメラがまちに向ける視線には、私の幼少期の視線が反映されています。ただ、それと同時にニコロデオン(※1)で『バフィー ~恋する十字架~』(※2)などを通じて触れた郊外のイメージにも影響されていると思います。
人工的な光には、どこか不気味さを感じるんです。テレビやパソコンなど光る画面を観る体験もどこか不気味で、同時に夢のようでもある。現実として存在していながら、目の前の人工的な光に身を委ねているんですから。
そんな光に対して、心に響く何かがあると感じるのは、郊外で「ここが最も普通で安全な場所なんだ」「これが子どもが育つ理想の環境なんだ」と教え込まれながら育ったことに関係しているのではないかと思います。それは、文脈もないままに、どのようにできたのかもわからない「人工的な環境」に突然落とされるようなもの。マクドナルドの遊び場に放り込まれて、「これが普通の環境だよ」と言われるくらい、奇妙なことだと思います。そうして普通を押し付けられながら育てられるうち、その環境のなかで自分なりに美しいものや煌めきを見出そうとする。私にとってそれが人工的な光の輝きだった。それは不気味だけど、同時にとてもロマンチックにも感じるのです。そして、私の映画ではその感覚や雰囲気を表現したいと思いました。

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—暗室に向かうまでのミュージックビデオのような長回しが素晴らしかったです。壁には意味深なポスターがたくさん貼られ、「ピンク・オぺーク」(本作の劇中劇)のエピソードタイトルが浮かび上がってくる。その現実と虚構が溶け合った不思議なシーンに込めたものを教えてもらえますか?
シェーンブルン:脚本に書いていたのは、オーウェンが学校をぶらぶら歩きながら、どこか浮いた存在のように見えるミュージカル的なシーンというアイデアでした。そこでオーウェンは自分の世界に浸りながら、マディからVHSテープを借りるため暗室に向かう。そのシーンを撮影するため、ある高校にロケハンに行ったところ、劇中に登場する廊下の広告が実際に壁に貼ってあったんです。その高校には暗室はなかったのですが、かつて暗室があった部屋を教えてもらいました。その部屋まで案内してもらったときに、私と撮影監督のエリック(・ユエ)は「ここで素晴らしい長回しが撮れる」と気付いたんです。そして、そのままの熱量でプロデューサーを説得して、あの長回しのためだけにそこで撮影させてもらいました。
私はこういった映画のつくり方が大好きなんです。私にとってロケハンは創造のプロセスのなかでも最も重要な要素のひとつ。なぜなら、現実世界のなかから、脚本上のアイデアに肉付けできる要素を探しているから。すでにその長回しシーンの構想はありましたが、ロケハンを経たことでイメージはさらに壮大かつ緻密なものとなり、構想の段階では思いつなかった角度から廊下という空間をより奇妙で豊かに彩ることができました。
そしてその長回しシーンにはキャロライン ・ポラチェクの音楽が使えることとなり、曲に合わせたミュージックビデオのように撮影しました。ただ観客からすれば、音楽を聴きながら誰かが廊下を歩くのをじっと観続けるのはちょっと辛いですよね。そこで、画面に文字を入れるというアイデアが生まれました。マディがオーウェンに宛てて書き記したメモ、たとえば「ピンク・オペーク」に関するマニアックなエピソードや噂話、豆知識などの文章を、映像に追加したんです。そうすることで、画面にマディがいないにも関わらず、オーウェンとマディの関係性を深める演出ができました。
また私の作品全般に言えることですが、私は映画のなかに劇中で映るよりもずっと広い世界をつくることが大好きなんです。本作は「ピンク・オペーク」とそのファンダムが背後にある世界なので、廊下に浮かぶ文字でそれを表現してみました。

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※以下、本作のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
—フィクションの物語にクィア性を見出し自分を投影することは、多くの当事者が経験してきたことではないかと思います。ただ本作では一歩踏み出せない人が、フィクションの世界に浸ったことで生まれる苦しみも描いていますね。
シェーンブルン:何かを受け入れたマディに「この世界は現実ではない。テレビのなかの世界こそ現実だ」と言われたオーウェンは、その言葉を信じるべきか迷います。そして物語の最後にオーウェンは文字通り自分を開き、マディの語っていたことが真実であると気付く。「ピンク・オペーク」の世界こそが現実であるため、彼はそこに戻らないといけないと感じるのです。私の場合、それはトランスジェンダーであることをカミングアウトし、性別移行のプロセスを始めることを意味しました。それはマディの言葉で言えば「現実の世界を捨てて、テレビ番組のなかに入る」こと。テレビのなかに入るなんてクレイジーだと思うかもしれませんが、じつはそうではありません。性別移行だって、それが本来あるべき現実の姿だと感じられるための唯一の手段であると気付くまでは、クレイジーに思えましたからね。
この過程を描くうえで、事実を伝えることも重要であると考えました。どういうことかというと、トランス性に悩む人物がついに卵を割り、自分自身に「私が何者か理解した。いまいる世界は現実ではない。自分らしく、幸せで、満たされた自分になるためには現実を変えなければならない」と思えるようになったとしても、それは準備完了を意味する訳ではないということ。私や多くのトランスジェンダーの経験上、それは第一歩目にも満たないかもしれません。踏み出すには長い時間がかかります。私の場合は32年かけてようやく自分自身を見つめる瞬間を迎えましたが、だからといって内面化した恥や恐怖、自己不信を消し去ることはできませんでしたし、すぐに踏み出して自分の人生を捨てる覚悟はできませんでした。ラストのオーウェンのように、普段の仕事を続けて、人々に「大丈夫。一瞬パニックになっただけ」と伝えようとも思ったんです。
—ラストシーンのオーウェンはやっと本当の自分に気付いたけど、まだ一歩踏み出す勇気は持てていない段階であると。
シェーンブルン:そうです。この映画では、そのことを正直に語りたかった。だって「自分を理解したことで、困難はすべて消えてハッピーエンドになる」なんて偽ることが、誰かのためになるとは思えないから。これは誰かの性別移行を描く作品ではなく、そこに辿り着くまでのとても困難なプロセスについての物語なんです。だから、この物語で描かれるオーウェンの顛末は決して、誰かに向けた教訓ではありません。物語のラストは必ずしもオーウェンの結末を意味しておらず、チョークで描かれているように、まだ時間はあると思うんです。ただこの映画の限られた時間で、オーウェンを真の自己愛の境地へ導き、彼をあるべき人物にするのは不誠実だと感じました。私にとって、その可能性がある場所へ辿り着くまでの過程だけでも、一本の映画として描くには十分に大きなテーマだから。

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—オーウェンの人生はそこで終わりではないということは個人的にも感じていたことなので、そのお話を聞けて良かったです。それでは最後の質問です。悪意ある嘘や誤情報がネット上に流布し、バックラッシュの吹き荒れるいまの世界で、クィア当事者の体験や感覚から生まれた映画を制作することの意義は計り知れないと思います。今後こういった作品がもっと増えることを願うばかりですが、シェーンブルン監督は当事者の体験を落とし込んだクィア映画を製作する意義とその現在地をどのように捉えていますか?
シェーンブルン:政治的な観点で言えば、妥協なく誠実につくられた個人的なトランスジェンダーの物語が、トランスジェンダーのみならず、あらゆる人々が生きている社会や世界における根深い問題に焦点を当てること、そして、それについて人々が語ることが重要だと思います。ただ残念なことに、そんな先例が充分にないのが現状です。だからこそ、自分である程度の予算を調達し、映画を制作し、なおかつメインストリームで受け入れられたことはとても誇らしいですね。ただ、それはもっと前から起こるべきことでしたし、今後もっと増えることを強く願います。「映画業界でトランスジェンダーの人々を支援するために何をすべきか」という問いの答えはとてもシンプルで、トランスジェンダーの人々が望むかたちでアートを表現させ、正直に語らせるだけで良いのです。たとえ、それが思っていたような作品でなかったとしても。
もちろん、これまでもトランスジェンダーの映画は予算の大小はあれど、つくられてきました。公開後しばらくしてからそう認識されたものもあれば、直接的ではないけれどトランスジェンダーのコミュニティが共感するテーマを扱っていたようなものもあります。トランスジェンダー当事者も映画をつくってきたし、今後もつくり続けるでしょう。そのなかで、私の映画やそれと同時期にアメリカで公開された他のトランスジェンダー監督たちの映画は、この世界で生きる自分たちの存在を隠したり、暗号のようなものを使ったりせずに描いています。そういう姿勢で映画づくりに挑む世代がいることに私自身、とても勇気づけられています。そしてそれは独自のムーブメントとして徐々に定着しつつあります。
それでも映画業界は先進的な人々によっては運営されていないし、さらに政治的な理由も加わって、トランスジェンダーについての物語やトランスジェンダーがつくった映画は、商業的な成功を見込めるとハリウッドを納得させるのは難しいでしょう。そこにいる世代の人々と私たちは根本的に異なるジェンダー観を持っていると感じるので、それは避けられないこと。けれど変わりつつある世界で、トランスジェンダーやマイノリティが、自分たちの経験を正直に語る作品をつくり始めたのは必然です。たとえ権力者や商業主義がそれに鈍感であったとしても、それは止めようのない事実なんです。