Text by SYO
Text by 廣田一馬
俳優・佐藤健。1989年生まれの彼は2006年にデビューし、約20年の活動歴で唯一無二の存在へと上り詰めた。
仮面ライダー、朝ドラ(NHK連続テレビ小説)、大河ドラマというトップ俳優の登竜門に位置付けられた人気番組で圧倒的な存在感を示し、『るろうに剣心』という看板シリーズの座長を2012年から10年近く務めあげ、2025年には自ら企画を立ち上げ、Netflixに持ち込んで実現させた『グラスハート』で共同エグゼクティブプロデューサーと主演を兼任。
俳優業のほかにもアパレルブランドの運営や公式LINE、YouTubeチャンネルでの発信など、活動領域を日に日に拡大させている。
本稿では、そんな佐藤の出演作をいくつか振り返りながら俳優としての凄味に改めてフォーカスしつつ、『グラスハート』で垣間見せた作り手/表現者としての覚悟についても触れてゆきたい。
はじめに……。これは俳優に限らないが、我々が他者を見つめ、何らかの印象を抱き評する際、自身の属性や状態の影響を少なからず受けるものだ(その集合体である世相や時代性と個人もまた相関関係にある)。
同じ対象でも時と場合でイメージが変わることもあれば、たった一つの出来事で好き/嫌いが反転する場合も。いわば、自分がいま何者なのか――何を是とし、何を非と断ずるのかの価値観や人間性の鏡といってもいい。
端的にいえば、極私的な感覚を言語化する以上はどうしたって何らかのバイアスがかかるということだ。この感覚に則って、俳優・佐藤健論を展開する前に筆者の素性を端的にお伝えしておきたい。
1987年生まれの筆者は、佐藤と同世代。彼のデビュー時(2006年)はちょうど大学に入ったタイミングで、『GOEMON』(2009)やNHK大河ドラマ『龍馬伝』(2010)を学生~フリーター生活を過ごしながら観ていた記憶がある。2012年に都内の編集プロダクションに入って映画雑誌の制作を始め、佐藤本人に初めてインタビューを行ったのは2013~14年あたり、『るろうに剣心 京都大火編』のプロモーションの場だった。
その後、2020年に会社員からフリーランスへと立場は変わったものの、最新作『グラスハート』まで継続的に取材機会に恵まれてきた(直接本人と言葉を交わしたわけではないものの『るろうに剣心 最終章 The Final』では劇場パンフレット、『First Love 初恋』ではオフィシャルインタビュー周りを担当)。そうした意味では、同世代ということも含めて少なからず縁はあるようには思う。
とはいえ、あくまで私見だが、インタビューで本人と相対したとしてもそれはお互いにとって仕事の場であり、そこでの振る舞いを「素顔」と呼ぶのはやや乱暴な気がしている。しかし同時に、カメラの向こうにいるときとはまた違った俳優陣のフランクな姿を垣間見るのもインタビューの特色だ。
俳優によっては、プライベートとONモードの中間くらいなんだろうな、と察せる状態で臨む者もいるが、こと佐藤においてはそうではない。他者、少なくとも筆者をはじめとする記者たちの目に触れる場では、いつ何時でもまったく気を抜かずに「俳優・佐藤健」であり続けている。
どの瞬間を切り取られてもイメージを損なわせない徹底ぶり――これをプロフェッショナルと呼ぶのか、と体現者を見た気持ちになったものだ。しかもその姿勢が、10年以上にわたって変わらない。先述のインタビュー会場で初めて彼と正対したときに感じたのは、心地よい緊張だった。
こちらがどれくらい本気でこの場に臨んでいるかを見透かすような、姿勢を正される無言の圧。自分はいま彼に試されている――そう明確に感じたことを覚えている。真剣に向き合えばこそ、こちらに求めるレベルも高くなるのは当然のこと。
現に、これまでの取材で演技面の少々込み入った質問を投げかけたときも、濁すこともかわすこともなくすぐさま端的かつ冷静な返答が返ってきた。10余年の社会人生活でそれなりの数の俳優にインタビューを行ってきたが、佐藤のようにヒリヒリしたクリエイティブの場に誘ってくれる相手は多くはない。芯のブレなさと静かなる熱さ――自分が佐藤健という役者にカッコよさを感じるポイントが、ここにある。
佐藤健が貫き続ける「カッコよさ」、その到達点にして答えといえるのが、演者はおろか制作者としても八面六臂の活躍を見せた『グラスハート』だ。本作では己の美意識とスタイルを大幅に強化させつつ、常人ではパンクするほどのマルチタスクをこなしている。

『グラスハート』ファーストルック
過去には『BECK』や『カノジョは噓を愛しすぎてる』など音楽がキーとなる作品にも出演してきた佐藤だが、本作ではピアノやギターの演奏はもちろん、バンドのフロントマンとして歌唱も披露。しかも一つや二つだけでなく、ライブ/レコーディング風景が全10話の中にこれでもかと盛り込まれており、最終第10話に至ってはほぼ全編がライブシーンで構成されている。
つまり、芝居とほぼ同ボリュームの割合で演奏が組み込まれているということ。
そもそも全10話構成に決めたのにもエグゼクティブプロデューサーとしての佐藤の意向が反映されており、自ら首を絞めに行った格好だ(彼はきっと「必要だからそうしただけ」と答えるだろうが、なかなかに無茶な捨て身の策ではあろう。ちなみに『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。
さらに、宮﨑優・町田啓太・志尊淳と共に劇中バンド「TENBLANK(テンブランク)」として実際にアルバムをリリースする力の入れよう(劇中の楽曲はRADWIMPSの野田洋次郎らが手掛けている)。当然、年単位での特訓が必要になるがそこに身を投じるだけでなく、脚本や美術、衣装等々の各打合わせに参加し、チームに己のビジョンとパッションを余すところなく伝えていったという。
マスコミ用のプレス資料のなかで、監督を務めた柿本ケンサクと後藤孝太郎のふたりはこう語る。
「人には見せないけど、実はとんでもない努力家」(柿本)
「自分の理想を熱く、ストイックに追求する完璧主義者」(後藤)
さらに、志尊淳らキャストに筆者がインタビューした際、座長として一番多忙な環境に率先して向かう姿に感銘を受け、自分も応えたいと気合いが入ったと語っていた。ドラマの中ではさらりと「天才」を演じているように思えるかもしれないが、舞台裏はまさに血のにじむような壮絶なものだったのだろう。
本作の完成までには実に2年以上の月日が費やされており、佐藤が原作小説と出会ったのが20代前半と考えると、ライフワークに近い位置づけといえるだろう(Netflixに企画の持ち込みをした時点で、自ら制作の合否を決めるテスト映像=パイロット映像を撮っていたというから驚きだ)。
断片的な情報だけでも途方もない作業量であり、精魂全てをつぎ込んでも足りなかったろうが、自らハードルを二重三重にまで高めて挑んでいく心意気には頭が下がる。

そして――『グラスハート』は、彼の鬼気迫るほどの己に対する美意識が存分に伝わってくる一作でもあった。
本稿の序盤でインタビュー時の徹底したスタイルを紹介したが、本作においてはどのカットを観ても「映え」になるように仕草や顔の角度、目の細め方に声色……あらゆる面において神経を張り巡らせているのが感じられるのだ。
つまり、「カッコいい」の究極特化。音楽の天才である藤谷直季を具現化するために佐藤が選んだ方法論なのだろうが、前述の通り準備段階で相当自身に負荷をかけているわけで、抜きを作るどころかさらに追い込む選択は命がけだっただろう。
藤谷は音楽以外はてんでダメなギャップのあるキャラクターで、作曲モードに入ると寝食を忘れるくらいにのめり込み、ステージ上で演奏する際は神々しいオーラを放つ反面、その反動で使い物にならなくなることもしばしば。しかしこの「ギャップ萌え」という王道設定も、ただのオンとオフの切り替えで表現していない。
オフの部分にも、クオリティに対する狂気的なまでの覚悟が透けて見える。カッコよさを引き立たせるための前フリであることを十二分に理解しているからこそだろう。
この部分に付随して興味深いのは、佐藤が自身を「素材」として捉えているように感じられることだ。全身の各パーツを指先に至るまで把握し、インクの配分を1%単位で調合するように、あらゆるカッコよさを繰り出してくる。
その職人芸は主観では到底到達できない代物で、いわば神の視点で自分の肉体を「使う」意識が見受けられる。佐藤自身が役者人生を通していつ何時も「見られる自分」を客観視し、最高の状態で保ち続けてきた――いや、更新し続けてきた歳月が、藤谷という役を通して結晶化しているのだ。
佐藤は本作の制作に際して「王道のエンターテインメントを、照れずに堂々とやりたい」との意気込みを語っていたが、知れば知るほど、観れば観るほどに「ここまでやるか」と畏怖をおぼえずにはいられない。
さらに――個人的に『グラスハート』に大いなる意義を感じるポイントは、佐藤健が孤高の存在ではなくなったこと。
藤谷がバンドという居場所を得るのと同様に、佐藤がTENBLANKを演じた共演者然り、柿本監督をはじめとするスタッフ陣然り、全身全霊をぶつけ合える仲間に出会えるまでのドキュメントとしても見られるのだ。
「愛する人たちと信じた音がこの鼓動をより力強く、より確かなものにしてくれるんだ。この命の音は紛れもなく僕たちのものなんだ」
『グラスハート』は天才が故に周囲を望まぬ形で壊してしまう宿命を背負った藤谷が、「僕」ではなく「僕たち」と言えるまでになる出会いと成長の物語だったが、きっと本作を通して佐藤本人も同じ想いに到達したのではないか――。そんな祈りを向けたくなるような説得力が、同シーンには宿っている。
そうした意味では、『グラスハート』は佐藤健の新たな代表作にして、彼自身にもなくてはならなかったターニングポイントといえるだろう。

自分から苦労をひけらかさないタイプであり、人前ではあえて涼しい顔を貫いているためパブリックイメージと逆行するかもしれないが、そもそも彼はたとえ外見はクールでも内面は激情が駆け巡る泥臭い芝居をする人物だ。
ここからは、『グラスハート』に至るまでの軌跡を改めて振り返っていこう。
連続殺人事件の容疑者に扮した『護られなかった者たちへ』や、父を殺した母親に憎悪を募らせる『ひとよ』が、「泥臭いカッコよさ」の好例だろう。
深い孤独を抱えているがゆえ周囲に攻撃的になるものの、根底には切実に愛情を求めているナイーブな人物を「観客が心根を分かる」絶妙なさじ加減で立体化している。
佐藤が扮する人物が切なさや哀しみを隠しきれず、感情を爆発させるシーンが作品全体の作劇的なスイッチになっている場合も多く、いわばドラマ面のエモーションのかじ取りが佐藤にかかっている構成だが、彼は生々しい痛みに満ちた芝居でもって上辺ではないカタルシスを与えてくれる。
就活生の闇深さや痛々しさがいたたまれなさを醸す『何者』では、クライマックスで明かされる主人公の真実が作品全体の雰囲気を一変させる。先に挙げた作品は印象が好転する部分が観る者の胸を揺さぶるが、こちらはその逆。
そして『世界から猫が消えたなら』では、大切なものと引き換えに1日の命を得る朴訥とした青年とそれを可能にする怪しげな「悪魔」の二役を同じ見た目で演じ分けた(違いは頬に絆創膏を貼っているかどうかくらい)。
場合によってはストレートに感動させてくれないノイズになる可能性もある構造だが、佐藤が芝居のテイストを明確に変えることでそうした危険性を早々に排除している。
この2本はどちらもトリッキーな特徴を持つものの、根幹にある感情の機微をしっかりと捉えて提示しているため、過程が複雑でも生の感情に帰結させているのが興味深い。
佐藤健のストレートも変化球も関係なく操る技術は、彼にとってあくまで役に魂を宿らせる手段でしかないのだろう。小技が浮いてくることのない芝居を観ていると、余計にそう感じられる。
核となる部分に泥臭さがあるから、『とんび』や『8年越しの花嫁 奇跡の実話』ほか、市井でひたむきに生きる人物を演じても本人が持つ華やかさと齟齬が生じない。
離ればなれになってしまった恋人たちの現在パートを託された『First Love 初恋』では、かつての悲恋を引きずりながらも相手の現在の幸せを願って本音を口に出せない優しさと、どんどん大きくなる恋慕の感情の狭間で葛藤する人間くささが共感性を高め、涙を誘っていた。
ビジュアル的な美しさを中心に据えた/前面に押し出した作品群では題意に沿って意図的に抑えている印象を受けるが、彼の芝居の基本軸は「泥臭く、生きる」であるように思えてならない。
その好例である『龍馬伝』では純朴な青年が人斬りに変貌していく過程を狂的なまでの入り込みで表現し、大友啓史監督との再タッグ作『るろうに剣心』シリーズでは主人公・剣心の二面性に説得力を付加。
なかでも剣心の人斬り時代を描く『るろうに剣心 最終章 The Beginning』は白眉であり、冒頭シーンから表情が見えないにもかかわらず禍々しいオーラを放出。つぶやくような内に籠る発声に本人の地声より低いトーンが、剣心の柔らかい雰囲気とのギャップを強烈に生み出しており、その後に展開する相手の耳をかみちぎり、口で刀をくわえて容赦なく斬り捨てる残忍さと見事に連動している。
超絶アクションの数々に自ら挑む身体能力の高さは誰もが知るところだが、佐藤においては前後の芝居と感情の動きにおいてもしっかりと連結させており、観客の目だけでなく心もつかむ部分に強みがあるように感じられる。
『京都大火編』の一対多数の剣戟アクションでは、表情はもちろんのこと逆刃刀の振り方、走り方――あらゆる挙動に剣心の「怒り」が宿っていた。見ごたえのあるアクションに痛みや重力を伴わせ、キャラクターがその行動を起こすに至る必然性までもたらしているのだ。
『亜人』では目の充血ぶりにガチ感を漂わせ、『いぬやしき』では説得力あふれる肉体美のみならず、人物がダークサイドに落ちる心理を芝居で補強。何でもありの漫画という媒体を実写に変換する際、荒唐無稽感を完全に消し去るのは難しいものだが(特にSFアクションともなれば)、佐藤のアプローチからは生身のリアルに引き戻そうとする気概が感じられる。
『世界から猫が消えたなら』の疾走シーンも、言葉を選ばずに言えばカッコ悪さが人物&物語描写に効いている。『はたらく細胞』では逆に、切れ味鋭い動きの数々を笑いへと昇華する器用さを披露しており、アクションひとつとっても作品や役どころに合わせて微細に調整している。
カッコよさと心中する圧巻の覚悟、限界を突破しても役づくりに捧げてしまう嘘のつけなさ。内面は泥臭く、出力で洗練させる――。
我々が佐藤健の芝居に見入ってしまう理由は、このギャップにあるのではないか。これまでの役者人生の集大成でもあったであろう『グラスハート』を完成させたいま、彼が目指す「新章」は何処にあるのか。佐藤健が体現するカッコよさの果てを、追い続けてゆきたい。