不完全さが評価される時代がくるかもしれない。押山清高が『ルッ...の画像はこちら >>



Text by 吉田薫
Text by 沼田学



1月16日から麻布台ヒルズギャラリーで開催中の『劇場アニメ ルックバック展 押山清高 線の感情』。映画『ルックバック』の押山清高監督は、「映画で伝えきれなかったことを伝えたい」という思いで、自ら主催として展覧会の制作に参加した。

60分の映画では駆け抜けてしまう作品のなかで描かれる感情や制作プロセス、アニメーターの手仕事——。AI時代だからこそ問い直したい「人間が描くこと」の意味について、押山監督に話を聞いた。



―展覧会、とても素敵でした。制作時の監督やスタッフの皆さんの気持ちを追体験できるような構成で、思わず感情移入しながら拝見しました。



押山清高(以下、押山):ありがとうございます。劇中に流れたharuka nakamuraさんの音楽もかけさせてもらっていたので、映画体験の様に音楽による効果も手伝ったのかなと思います。



―本展覧会に関して、押山監督は「もう一つのルックバックを作りたい」とお話しされていらっしゃいましたが、どういった思いで制作されたのでしょうか?



押山:映画が完成したときから展示をやりたいと思っていました。というのも、やっぱり映画って、良くも悪くも監督のリズムでその作品にとってのベストな時間軸を作って、それにできるだけ没入してもらうという作り方をするじゃないですか。



―はい。



押山:そうすると、『ルックバック』は特にセリフが少ない作品でもあるので、あっという間にいろんなことが駆け抜けていってしまった気がしていて。



何度も足を運んで見てくださるようなお客さんには、深いところまで伝わっていたと思うんですけれども、そうでないお客さんには、伝えたかったことの半分も伝わっていないんじゃないかという思いもありました。



押山:展示だったら、もっとお客さんのペースで作品を深いところまで理解してもらえるかもしれないと思ったんです。

映画では伝えきれなかったもの——映画を作るプロセスや制作が終わって時間がたったからこそ見えてきたもの、そういった監督視点の物事を包み隠さず伝えたら、映画とは違った『ルックバック』に出会ってもらえるんじゃないかという思いがありました。



展覧会も一つの作品として世に出したかった。映画の作り手自身が主催に入らなければ、そういう見せ方はできないと思ったので、参加させていただいています。



―なるほど。これまでも演出・監督としてたくさんのアニメ作品を手がけてきていらっしゃいますが、なぜ『ルックバック』に関しては展覧会にもしたいと思ったのでしょうか?



押山:ほかの作品を制作しているときも、展覧会という形態にこだわらずアニメーター達のすごい手仕事をもっと見せたい、知ってもらいたいという思いはずっとありました。でも、展覧会って、アニメを作っている身からすると結構遠いところにあるというか。展示会もいろいろな準備やアニメ制作とは違ったノウハウが必要で、そもそもアニメ作りをしているとそんなエネルギーを捻出する余裕はないし、まして主催なんて想像もつかなかった。だから、何かやりたいと思ってすぐにできるとは思っていなくて。



幸いにも『ルックバック』は多くのお客さんに受け入れてもらえたので、麻布台ヒルズ ギャラリーさんをはじめ、共に展覧会のプロジェクトを並走してくれる頼もしいパートナーと共に展覧会を作れた。実際に展覧会の制作に参加してみて、これはこれで大変で、僕のやりたいという気持ちだけでは到底実現できなかったのではないかと思います。



不完全さが評価される時代がくるかもしれない。押山清高が『ルックバック』展で問う、AI時代の創造性

押山清高(おしやま きよたか)
1982年生まれ。アニメーション監督、アニメーター。

スタジオドリアン代表取締役。『電脳コイル』の仕事で注目を集め、以後『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』『風立ちぬ』など劇場作品に数多く携わる。『鋼の錬金術師 嘆きの丘の聖なる星』ではアニメーションディレクター、『スペース☆ダンディ シーズン2』第一八話では脚本・絵コンテ・演出・原画を1人で担当。TVアニメ『フリップフラッパーズ』で初監督を務める。映画『ルックバック』では監督・脚本・キャラクターデザインを務め、約700カットある全編の内、350カット程を担当した。



―今回の展覧会は4部構成です。どのように構成を決めていったのですか?



押山:展覧会自体の企画が持ち上がっていたところで、僕が最初に、この展覧会の目的や方向性だったり、いまなぜこの展覧会をやるべきなのかとか、社会に対してどういう問いを投げるべきか、どう位置づけるべきかとか……そういう指針を、最初に文章化と説明で明確化して、みんなに共有するところから始めました。



それを受けて、かまちかや(エンタメやアートの総合プロデュースを担う会社)の鎌倉さんから構成案を頂き、僕はそれを元に展示会としての方針と作品解釈に間違いがない事を確認しながら、各エリアを共にブラッシュアップしていきました。ディテールにも出来るだけこだわりましたね。



京本の家の廊下を再現した展示では、やっぱりリアルに再現したかったので、「消防法の制約で天井は作れませんでしたが、フローリングの板の数も映画に合わせましょう」とか、藤野の部屋の展示では「藤野だったらこういう小物を使うはず」みたいな感じで、細かいところまでディレクションさせていただきました。



―先ほど、展覧会のテーマ性や社会に対する問いを最初に文章化したというお話しいただきましたが、どういった内容だったのかおうかがいしてもよろしいでしょうか?



押山:アニメって通俗的な表現だと思っていて。そこに対して我々はプライドを持っているんですけど、一方でアニメの魅力ってそれだけじゃないとも思っているんです。

もっといろんな角度から楽しんでもらえるものだと信じているので、この展覧会で皆さんがアニメを楽しむ領域を、少しでも広げられるといいなという思いが基本的にはありますね。



不完全さが評価される時代がくるかもしれない。押山清高が『ルックバック』展で問う、AI時代の創造性

劇中で重要なシーンが展開される、京本の部屋の前の廊下を再現した展示。ライティングにもこだわったとのこと。



―先ほどお話しいただいた、アニメーターの手仕事を見せたいというお気持ちともつながるかと思いました。私たちが親しんでいる作品の背景も知ることで、エンタメをもっと幅広く深く楽しめるということでしょうか。



押山:そうですね。「原作が好きだから、映像化されて楽しい」みたいな、表面のストーリーだけしか語られないとすると、アニメの存在価値がすごく狭くなってしまうなと。もちろん映像化によって国内外に作品が広がったり、文字が読めない人にも伝えることができたり、映像化そのものに価値はあるんですけど、『ルックバック』はそれだけではもったいない作品だと思いました。



『ルックバック』は「描くこと」を運命づけられた少女2人のお話しです。この物語は解釈を拡大していけばクリエイターをフォーカスした作品にできる……そうすべきだと思いました。



いま、AIが台頭してきて「人間の存在価値」があらゆる分野で問われていますよね。ちょうど『ルックバック』を制作している真っただ中に、AIの自動生成のニュースが話題になったんです。

それを受けて、あらためて人間臭くこの作品を作るべきだと思ったし、この展示は映画の記録という事以上に「人間存在の証明」をしなければいけないと考えました。手仕事ができる多くの素晴らしい職能スタッフが存命しているうちに、アニメを通俗文化としてだけではなく、芸術や文化遺産として再定義すべきだとも思ったんです。



不完全さが評価される時代がくるかもしれない。押山清高が『ルックバック』展で問う、AI時代の創造性



ー「人間臭く作る」ために大切にされたことは何でしょうか?



押山:アニメーションって、不自然にならないように描くだけでも、すごいノウハウと技術が必要なんですね。だから正直、物語やキャラクターの感情や考えが憑依しているだけでもなくて、うまく描けないと試行錯誤を繰り返して苦心していたり、筆がのって気持ちよく描けていたりとか、実際には複雑です。それに、アニメーターがどんなに感情を込めた線を引いたとしても、動画担当(※)がトレスしてクリーンアップするので、その線のニュアンスなどの情報はそぎ落とされえてしまって、画面には表れない。



でも『ルックバック』では「アニメーターの原画の線を動画トレスせずにダイレクトに画面に出しちゃおうぜ」という手法をとっているので、描き手それぞれの個性的な筆致を残しやすくしているんですよね。技術的にスマートに見せていくというよりは、ある種下手くそでも、個々人のエモーショナルな部分や痕跡をなるべく画面に残そうという意識がありました。



あと、物語のなかでも感情に波があって、場面ごとに印象を優先してキャラクターの絵柄を描き分けるとかしているんです。それは、少人数で制作したからこそ、そういう臨機応変な制作と表現ができたと思っています。いわゆる大量生産のアニメーションの制作のセオリーから外れた、実験的なチャレンジができたなと思っています。



不完全さが評価される時代がくるかもしれない。押山清高が『ルックバック』展で問う、AI時代の創造性



―『ルックバック』は「描くこと」をアニメで描く、という押山監督にとってメタ的な部分があった作品だと思います。約1年の制作を通して自分の「描く」ことに対しての考えや熱量に変化はありましたか?



押山:作りながら、やっぱりどんどん作品に入り込んでいきました。

映像化を意識してから1年半の準備期間を経ても、描き始めは探り探りなんですけど、1年ぐらい描いていると絵柄や作風に慣れてきて「こういうふうに描くんだな」とつかめていきました。一方で公開に合わせてなかなかのハイペースで描いていた分、後半の追い込みは体力的にもしんどくなってはいたもののゾーンに入っていた感じもありました。その日その瞬間のコンディションで絵が変わるのが、人が描くことの面白さだと思います。だから手探りしながら様々な制約の中で精一杯作った不完全さが、この作品の魅力の一つだと思っています。



だから、パッケージ化や配信するときもほとんどリテイクしませんでした。通常だと映画のときに作り込めなかったところを直すことが多いんですが、ほぼやっていない。120パーセントを出しきっても不完全なところはあるんですけど、人間なんだから、どこまでいったって完全には作り込めない。精一杯作ったけど、その不完全さも含めてこの作品の魅力だとも思ったので、このまま残しておくために振り返らないというか、なるべく直さないようにしました。



さっきのAIの話とも似てますが、人間くさいことがこの作品にとっては大事だったと思います。同時に直し始めたらキリがないし、正直大変だからもう描きたくないという気持ちもあります。



―最後に、描く喜びや意味は、どんな時代になっても変わらないでしょうか?



押山:映像によるアニメーションの歴史はせいぜい100年ちょっとですけど、洞窟壁画とか、人類が絵を描いてた歴史をたどれば数万年前まで遡れる。人類の進化は、時代のスピードに全然追いついてないので、その大きな流れはこの先も変わらないと思います。

子どものときから人間って描くじゃないですか。



いつの頃からか、上手い下手とか社会的な評価軸で、うまく描けないからもう描けませんみたいになっちゃう。でも別に上手に描かなくてもいいじゃないですか。AIが発達したら人類みんな下手になる可能性だってあるわけで、だったらもう描かなくていいじゃん、とはたぶんならないと思うんですよね。



むしろ、か弱くて尊い人間の存在に気づいて、絵が上手くなることが邪魔とまでは言いませんが、そもそも本気で描いても下手である事が人間らしくて魅力的なんじゃないの、という再評価の波が来るのかもしれないですよね。



不完全さが評価される時代がくるかもしれない。押山清高が『ルックバック』展で問う、AI時代の創造性

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