「いまの俺にこの役ができるだろうか」といった不安や葛藤があった

生きづらさや苦悩を抱えながら生きる人々が、劇団「トーラスシアター」との出会いを通じ人生を見つめ直す姿を描いた白尾悠の同名小説を、主演・内野聖陽×監督&脚本・大森寿美男で連続ドラマ化した『連続ドラマW ゴールドサンセット』(毎週日曜 22ː00~ 全6話WOWOWプライム/WOWOWオンデマンド※第1話は無料放送)が、2月23日よりWOWOWにて放送&配信スタートする。部屋で突如大声を出し、隣人の女子中学生に不審がられるも、次第にその奇妙な振る舞いの理由と、ひた隠しにしている過去が明らかになる謎の老人・阿久津勇を演じた内野聖陽に、「与えられた役を"生ききる"こと」や「演劇がもたらす効用」についてじっくり語ってもらった。

――本作のオファーがあった時の心境は?

最初に原作を読ませていただいた時は多少とっつきにくさを感じたのですが、改めて読み直してみたら「なんて素晴らしい小説なんだ!」と感動して、読了後に一人で拍手をしてしまいました。
とはいえ、実年齢よりかなり年上の設定だったので、「いまの俺にこの役ができるだろうか」といった不安や葛藤もあって……なかなか決断できずにいたのですが、大森さんと何度かメールをやり取りするなかで、「本当に年老いている人を撮りたいわけではなくて、精神的に老いてしまった人を撮りたいんだ」という一言に非常に勇気づけられて、それが出演の決定打になりました。それにしても結構大変な役だなあと(笑)。というのも、普段から演劇をやっているプロの俳優が演じるリア王ではなくて、一度落伍してしまった元・新劇俳優が、下手だけど自身の贖罪のためにやる"一夜限りのリア王"である、というところが本作の肝になるので。

――つまり、劇中に登場するのは、あくまで「阿久津という男が演じるリア王」であり、「内野聖陽が演じるリア王ではない」ということですね?

もちろんです。阿久津という男は、自責の念に駆られるあまり、自分の人生を否定していて、極端な話「リアのセリフでしか現実世界と関わることができない」ような男なんです。だから僕自身、常に阿久津がいまどんな精神状態にあるのか考えながら演じる必要があったので、かなり追い込まれましたね。「『リアを演じることでしか生きることを赦されない』と思い込んでいる男の役である」というのが、今回のキーポイントだった気がします。

――劇中劇とはいえ、内野さんが「リア王」を演じることに対して、演劇ファンの方たちの注目が大いに集まっているのも事実です。

監督の大森さんがものすごく熱心で、劇中で使う「リア王」の台本を作ってくださって、劇団の皆さんと実際に台本を手に持ちながらお稽古したんです。と言っても、実際の演劇の100分の1ぐらいの稽古ではありますが、真剣に向き合ったあの時間というのはとても貴重でしたね。コーデリアを抱きかかえながら出てきたり、激しく怒り狂うエネルギーは、体力が落ちてからはできないですし(笑)、若すぎても老境の哀しさは出せないし。そういう意味ではリアを演じられる頃合いというのは限られるので、出来るだけ早く生の舞台で演ってみたくなりましたね。
今回は気合でなんとか乗り切りましたけど、全編通して演るよりも部分的にピックアップして演る方が、意外と大変だったりするんです。

――なるほど。

とにかく阿久津はシニカルでペシミスティックであることが大事だったので、現場でも共演者の方たちとあまりベラベラ喋りたくなかったんですが、劇団員役の六平直政さんが、僕が必死になって"閉じキャラ"を作ろうとしているのに、「ねぇねぇウッチー、あのさぁ……」と、あの憎めないお顔で話しかけてこられるから本当に大変で(笑)。有薗芳記さんも含めて、演劇界に欠かせないお二人が、ムードメーカーとして現場を目一杯盛り上げながら、劇団のリーダーシップも取ってくださってすごくありがたかったのですが、あの時ばかりは「Don't talk to me! 話しかけるな!)」という感じでしたね。

――私は劇中の「本気で誰かが絶望すれば、それは誰かの希望になる」というセリフがもっとも印象に残ったのですが、内野さんはその言葉についてどう感じましたか?

まさしく演技の本質をついたようなセリフですよね。「リア王」という作品自体がそうですが、"悲劇"を観ることで人はカタルシスを得るところがあるというか。卑近な例で言うと「人の不幸は蜜の味」じゃないですが、誰かが堕ちていく姿というものは、観る人の心を持ち上げるという側面もありますよね。自分自身が苦境に立たされている時って、極端に苦しむ人を目の前にまざまざと見ると、「ああ苦しいのは自分だけじゃないんだ」感というのかな(笑)。「誰もが皆、必死で地獄を生きているんだな」と思わされるというか。ずっとひとりで抱え込んでいたものがスッと落ちる瞬間があるような気がします。大森監督も「絶望している人の姿を目の当りにすることで、人間にとって何が一番大事なのかを気づかされることがある。それが結果的に観る人の希望になるんじゃないか」とおっしゃっていて。
「なるほどなぁ」と思いましたね。

――「役者が魂を削って表現に臨むことが観客の救いになる」とも言えますよね?

たしかに、僕自身も若い頃から舞台で「悲劇」を演じる際は、人生でもっとも苦しい部分のかさぶたを剥がして鮮血を出すような感じで臨まないと、観る人に伝わらないんじゃないかなぁと思いながら演っている節がありますね。

――劇中、阿久津は「贖罪」のためにリアを演じていましたが、内野さんご自身の中にも「○○のために」といった意識はありますか?

どうでしょう? 僕はそういったことはあまり言葉にしたくありませんね。「○○のために」みたいなことについては、口にした途端ウソになるからねえ。たとえば「お金のために」とも言えなければ、「社会貢献のために」とも言えないし。「ただ単に自分が楽しむために」と言ったら、それもまたウソになってしまうよねぇ。

――「演じる」ということの中にはいろんな要素が入っているということですね。

僕自身は、フィクションの世界からパワーをもらいたいと思っている人間なんですよ。フィクションを観て、「落ち込んで生きていくのがイヤになった」とか「意気消沈した」みたいになるのは、僕にとってはちょっと違うんですよね。だから表現者としても、たとえ悲劇であれ、人を勇気づけるようなものが作りたいという理想はあります。とはいえ、「果たしてどんなものが観る人の心を一番動かすのか」というと、それは僕にはわからない。ただ、役者である僕に課されたミッションというのは、「与えれた役を生ききること」でしかなくて。
そうやって一つの役を生ききれさえすれば、フィクションという枠の中で何かしら作用して、観ている人の心の中で何か起き得るはずだと信じているだけ。色んなものが複合的に影響しあって「その先はどうなるかわからない」というのが本音なんです。だから「何のために演じるか」と言ったら、「役を生ききるため」かもしれないですね。

――つまり、与えられた役を全うすることが自身の人生を生ききることに繋がると?

どうなんでしょうねぇ。でも、役を生ききることを続けていった先に、人間としても、さらに磨かれていったらいいなという思いは、一応あるにはありますけど、大体人生なんていくら先を思い描いたところで思い通りになんてならないじゃないですか(笑)。なので、僕には人生プランとかそんなものは全然ないけれども、「常に挑戦をして、勝ち得ていきたい」みたいな思いが、演じる上での原動力としてありますね。

演劇をやったり、観たりすることで、生きる希望を見出すことができる

――では、今回の作品で阿久津という役を生ききった内野さんが新たに得たものは?

いやそれはまだわからないです。観てくださった方がどう感じるかによりますから。演技なぞ観てくださる他者がいない限り成立しえない世界ですから(笑)

――ご自身で達成感を得られるかどうかも、視聴者の反応次第ということですか?

特に映像の場合は、舞台と違ってバラバラに撮るので。もちろんシーンごとに自分の中では「これが正解なんじゃないか」と自信を持って一応提示はするけれども、やっぱり監督さんの編集という複雑な化学反応によって一つの作品が出来上がるわけで。僕はあくまでもその中の一本のネジというか、一個のパーツでしかない。だからこそ出来上がった作品を観たお客様がどう感じ取ってくださるのか、いつもドキドキワクワクハラハラの世界なんですよ(笑)。
自分自身の芝居がどうだったかというよりも、その作品自体がどう評価されているのかというのが、やっぱり気にはなりますよね。

――そこが映像と演劇の舞台一番の違いですか?

そうですね。映像と舞台とでは役者に課せられた責任の度合いが違いますよね。舞台の場合は、幕が上がってから幕が降りるまで、いわばワンカット長回しですからね(笑)。

――内野さんは本作について「演劇というものの効用が改めて問い直される作品だ」とコメントされていましたね。

僕は本作に出てくる「嘘が本当になる瞬間」というセリフが好きなんですが、フィクションの中に現実が立ち現れる瞬間が、芝居をしているとままあったりするんです。きっと世の中の大半の人たちが日々生きることに苦しんでいたり、何かに迷っていたり、一歩を踏み出せずにいたりしているんだと思うんです。たとえそういった状況のなかにあっても、実際に演劇をやったり、観たりすることで、生きる希望を見出すことができるというか。「三人姉妹」や「リア王」から、明日を生きる力をもらえるような気がするんですよね。
どうにもならない現実に直面しながらも、リアのような悲劇の主人公を見ることで、何かしらの浄化作用があって、明日を生きるエネルギーに繋がるところが、演劇のいいところなんじゃないかという気が僕はしています。だって、たとえばポール・マッカートニーの歌ひとつとっても、配信で聴くのとライブで生の歌声を聴くのとでは、全然違ったりするじゃない?「うわ、いままさにそこでポールが生きて歌ってくれている!」という生々しい実感がもたらすパワーは必ずあるはずだから。

――でも、生の演劇のパワーをドラマで伝えるというのは、なかなか大変ですよね。


いや、本当にそうなんですよ。視聴者の皆さんに、「生の『リア王』を劇場で観てみたい!」と思っていただけるかということでもありますからね。とりわけ、本作の終盤のシーンというのは、自分の中でもある種の"賭け"みたいなところもあって。過去の罪といま演じている演劇がリンクしていくようにシナリオは作られているんですが、それが果たして観る側にうまく伝わるのだろうか……という不安と恐怖がありました。「精一杯頑張りますから、あとは監督よろしく!」みたいな感じでやってましたので(笑)。だからこそ、実際に見ていただく方がそれをどう感じ取るのか。僕は一刻も早く知りたいです。忌憚のない感想をいただくのが楽しみです。

ぜひとも最初から最後まで、グッと作品世界に入り込んでいただいて、じっくり味わっていただけたらと。その上で、演劇を通じて得られる再生のエネルギーやシニア世代が発する煌めく瞬間にパワーをもらえるようなドラマになっていたら嬉しいです。ちなみに僕的には第2話と第4話がオススメです。なかでも定年退職した教師役を津嘉山正種さんが演じていらっしゃる第4話の「なつかしい夕映え」は、本当に素晴らしいですから。
あれを観て「人間には演じるということが必要なんだ」と改めて実感させられました。
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