フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○すこしずつ見える光

満州では順調な成績で発進し、西條八十や恩地孝四郎の詩集に印字が採用されるなど、明るいきざしも見えていた写真植字機だが、日本国内での機械の販売成績は、いっこうにふるわないままだった。1934年 (昭和9) に横須賀の海軍工廠に1台を出荷したものの、1935年 (昭和10) に入っても民間の印刷所からあらたな注文がくることはなかった。

実用機第一弾として5大印刷会社に納入された写真植字機は、1933年 (昭和8) ごろに改良文字盤が完成してから、オフセット印刷やグラビア印刷で訂正をおこなうときに活字で清刷りをとる代わりに写植で印字するという、ごく部分的な使われ方で、ようやく動かされている程度だった。

それでも実用機第一弾を入れた日清印刷 (1935年に秀英舎と合併して大日本印刷に) では、現場の熱意ですこしずつ写植が活躍の場を広げた。1933年 (昭和8) ごろから日清印刷の早稲田工場で写植係を担当し、大日本印刷になったあとも写植を担当しつづけた高相悌一 (のちの三協美術社長) は、当時をこのようにふりかえっている。

〈早稲田工場はオフセットの印刷専門の工場で組版設備がなかったから、製版中に誤字がみつかるといちいち牛込の榎町工場まで清刷を頼まなければならない不便な状態だった。そこで榎町工場の片隅で眠っている写植機を使ってみようという意見が起り、早稲田へ移したのがはじまりで、写植機に興味をもった駈け出しの進行係助手の自分が担当することになった。 はじめは文字通り誤字の清刷代用であったが、そのうちに短い写真のネームなども手がけるようになり、周囲の写植への認識があらたまってくると同時に、主婦の友や家の光、婦人子供報知などの広告にまで発展し、自分もいつしか「写植のベテラン」に祭り上げられていた〉[注1]

当初は清刷りの代わりだったのが、仕事の難易度が上がるにつれ、高相は石井写真植字機研究所をしょっちゅうたずねては、茂吉から助言を受けるようになった。会社の営業部に頼みこんで活版の仕事をむりやり写植にまわしてもらったり、機械に不備があれば茂吉に注文をつけ、拡大レンズを使えるようにしてもらったり、飾り罫の文字盤をつくってもらったりして、自分の担当する写植の仕事を伸ばそうと努力したという。

不景気な世にあって、いまでいうリストラの新聞記事が目につく時代に、高相は努力を重ねて写植の仕事を育てた。しかし写植の仕事が本格化するまでには、まだ数年を要した。
[注2]
○町の小さな印刷所から

大会社は、ある意味こまわりがきかない。あたらしいものを取り入れることにおいては、町の小さな印刷所のほうが機動力を発揮することもある。

1936年 (昭和11) 2月のことだった。神田一ツ橋にある加藤製版印刷所から、石井写真植字機研究所の印字部に、百人一首の取り札の印字の仕事が入った。代表の加藤広太郎は、注文してわずか半日で届けられた校正を見ておどろいた。活字ではよく見られた伏せ字が一字もなく、誤字もない。文字の並びは美しく、大きさのばらつきもない。得意先に校正を持っていくと、「これは美しい!」と喜ばれた。

「写植はよくなった」と噂には聞いていた。しかし予想以上の仕上がりに「オフセット印刷文字の将来は、写真植字にあるのではないか」と感じた加藤は、妻とともに石井写真植字機研究所をたずねた。茂吉は加藤夫妻を出迎えると、印字部と工場を案内し、発明の苦労話や、将来の機械の構想などを語った。

加藤はその場で1台、注文をした。
茂吉の喜びは大きかった。

「われわれも、夫婦ともに協力しあい写真植字機の事業をやってきました。それだけに、加藤さんのようにご夫妻でそろって注文に見えるような、個人印刷所からのご注文は特別に感慨深いのです」

民間の個人経営企業からの注文第1号。それは、写真植字機が大企業や軍関係だけでなく、町の小さな印刷所にまでやっと浸透しはじめたことを示していた。「ようやくたどりつくところまでたどりついた」。茂吉といくは、加藤からの注文をそんなふうに感じた。加藤夫妻への共感も手伝い、契約条件はかなりゆるいものになった。1936年 (昭和11) 2月19日付の契約書によると、具体的にはつぎのような内容だ。

写真植字機1台 金4,500円也内訳:レンズ18本、補助レンズ2本 (変形および拡大レンズ)、文字盤3種 (明朝32枚、ゴシック31枚、ルビおよび装飾体18枚)

1929~1930年 (昭和4~5) に5大印刷会社に納入したときが1台3,800円だったのに対し、700円上がってはいたが、機械や文字盤の内容が改善された反面、貨幣価値が下がっていることをかんがえれば、安い値段といえた。[注3]

茂吉は、加藤がスムーズに写植機を導入できるよう、研究所で養成したオペレーターを派遣した。加藤は翌1937年 (昭和12) にも写植機を注文して順次5台の機械をそろえ、〈オフセット用文字と製版を営業し、もうけさせていただきました〉と、のちに語っている。[注4]

そして加藤製版印刷所が写植機1台目を注文したのとおなじ1936年 (昭和11) の秋、民間からもう1台の注文が入った。
愛書誌『書窓』を刊行するアオイ書房・志茂太郎からの注文だった。[注5]

(つづく)

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雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com

[注1] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.143

[注2] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.143-144

[注3] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.146-148

[注4] 加藤広太郎「民間第一号機」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.37-39

[注5] 本稿は、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.142-148、加藤広太郎「民間第一号機」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.37-39 をもとに執筆した

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影
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