フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
○文字と印刷にこだわり尽くして
1935年 (昭和10) 4月、東京・中野区で酒販店「伊勢元」を営んでいた志茂太郎は、恩地孝四郎を編集者に迎え、みずから主宰するアオイ書房から愛書誌『書窓』を創刊した。いわば〈愛書家の同好クラブ、社交サロン〉ともいえる雑誌で、会員に限り直接頒布の月刊誌として700部限定でスタートした。[注1]
〈アオイ書房は純粋に私の道楽仕事です。本を作って儲けようなどとは、私はかつて一度も考えて見た事もありません〉と創刊号に書いたように、志茂にとっての本業はあくまでも酒販店であり、しかし道楽仕事だからこそ、採算度外視でこの雑誌に取り組んだ。[注2]
『書窓』はタイプマニアかつ印刷マニアである志茂が手がける雑誌ゆえ、創刊以来、理想の仕上がりを求めて試行錯誤が繰り返され、「雑用手帳」と題する編集後記には、活字、組版、印刷にまつわる苦労話がいく度となく綴られた。創刊号では〈「書窓」は、読む雑誌であると同時に、眺めても楽しめる雑誌たらしめるべく、視的効果を高める為紙質印刷等には、実は人知れぬ費用を投じておるのであります〉〈他の雑誌より、ずぬけて雅味に富んだ落着いた調子をもたせるために、発行日を延してまで色々苦心して見ました。印刷の出来ばえに就て遠慮ない御批評をお聞かせ下さい〉と、そのこだわりぶりをのぞかせている。[注3]
もっとも、続く第1巻第2号 (1935年5月) では、「雑用手帳」を書きはじめるなり〈創刊号の印刷は、げにも壮烈なる大失敗でした。印刷については、前々から何やかやミソを並べていただけに、消えてなくなりたい思いです〉と嘆いている。志茂は、『書窓』が見て楽しめる雑誌になるよう、創刊号から一貫してオフセット印刷にこだわった。〈メタリックな冷たさ、鋭さを持たぬ、オフセット特有の、うるおいに富んだ温雅な落着きに、私はいつでも和やかな休らいを感じ、泌々と親しさの湧き起るのを覚えます〉 というのがその理由だった。
しかしこのころは文字ものといえば活版印刷全盛で、オフセット印刷による文字ものの印刷はまだ実績が少なく、目指す仕上がりを実現するために、2号では〈オフセットによる文字物印刷に、最も秀でた技術経験を有し設備完全な美術印刷株式会社を選定して本号から依託することにしました〉と、印刷所を早速変更している。[注4]
組版原稿についても試行錯誤し、第1巻第1、2号では印刷用タイプライターで誌面と同様に印字した組版原稿をつくり、それを版下として縮写・写真製版してオフセット印刷する「単式印刷」をおこなっていたが、この方式は雑誌の印刷に使いこなすことが困難として第1巻第3号 (1935年6月) からはいったん活字で組版し、これを精細に印刷した清刷りを版下として写真製版し、オフセット印刷する方法に切り替えた。[注5]
○謎の「活字」
そして1935年 (昭和10) 9月に刊行した第1巻第6号で、画期的な誌面が登場する。本連載第65回 でもふれた、写真植字機の「変形レンズ」による長体明朝で組まれた誌面だ。
目次のみに使用されたものだったが、目の肥えた『書窓』読者からは「この長体明朝はなにか。活字にはない書体ではないか」と、問い合わせが相次いだ。志茂はその次の号にあたる第2巻第1号 (1935年10月 / 『書窓』は6冊を1巻分としていた) の「雑用手帳」で〈これは石井茂吉氏の写真植字機研究所で極最近に完成された特殊なレンズによる印字法です。石井さんとは昔から大変親しくして頂いておりまして、かねがね「書窓」の印刷についても御指導を賜わっているのですが、今回長体及び平体印字法の完成を機として今後毎号「書窓」の為に直接御尽力を願う事になりました〉と種明かしをし、この号の目次と「本の美術工房日記抄」などは写真植字によるものだと書いている。[注6]
ここから『書窓』での写真植字組版が始まった。以降、同誌は活字組版、単式印刷、写真植字をページによって使い分けるなどして、組版をおこなっていたようだ。[注7]
志茂はほかにもこの時期に、恩地孝四郎詩文集『季節標』(1935年12月刊行) を写真植字によってつくっている。
○渾身の「印刷研究特集号」
1936年 (昭和11) 3月には、志茂が『書窓』創刊時から切望していた「印刷研究特集号」が第2巻第5号として刊行された。
思い入れの強いあまり、通常80ページのところ200ページ超となってしまった同号は、活字組版、単式印刷、写真植字による3種類の原稿を版下としてオフセット印刷をおこない、その工程を椙江三郎が寄稿しているほか、和田助一が単式印刷について綴っている。
そして茂吉も、「写真植字機 ――光線のタイプライター――」を寄稿した。冒頭で〈私は元来書くことが不得手の上に、手前味噌を書くなど尚更気がひけるので御断りしたのだが、是非とも書けという。その上に発明の来歴をも加えろという無理な御注文、それではと志茂さんに御話する気で書いたのですが、それを志茂さんがいろいろと加筆されてこの原稿が出来たのである。発明者自身の記述として烏滸がましい節は、志茂さんが勝手に加筆されたものと御諒解下さって御許を願いたい〉と書いているように、茂吉はそれまで、写真植字機についてまとまった文章を雑誌などに寄稿したことがなかった。志茂の熱望によって実現したこの記事で、茂吉は「写真植字機の理想は、さまざまなデザインの書体から人の書き文字まで、多種多様な文字を印刷に使えるようにすること。活字では夢のような話でも、写真植字機ならそれができる」と語った。[注8]
○ついに買い入れる
印刷研究特集号で写真植字機を本格的に読者に紹介した志茂は、寄せられた大きな反響に後押しされてか、その次号である第2巻第6号 (1936年4月) 「雑用手帳」で〈印刷について一段の改進を実行して、「書窓」本来の眺めて楽しむと云う部面を一層強調したい〉とし、3つの宣言をする。その一つが〈本文に写真植字を極力多く使用します〉だった。[注9]
おそらくはこのタイミングではないか、と筆者は推測する。志茂太郎はとうとう、写真植字機を1台購入する。従来は写真植字機研究所に依頼していたであろう印字を、みずからもおこなわずにはいられなくなったのだ。
それまでも活字組版をみずから手がけていた志茂である。そのこだわりぶりを見れば、道楽でアオイ書房をやっているはずの酒屋の店主が写真植字機の購入にまで踏み切ったことにも、納得がいく。
〈手造り時代だからそのおこし入れ風景は至ってのんびり、機械はオート三輪に積んで、石井大人じきじきの上乗りで運びこまれた。(中略) 参考のためしるしておくと、当時五千円と六千円の間だったと記憶している。〉[注10]
志茂の手記にこう残っているように、アオイ書房への写真植字機の納品は、茂吉がみずからおこなった。
志茂の購入した写真植字機はレンズが18本、アタッチメントレンズも使えるようになっており、ひととおりの機能は備えていたとはいえ、〈あの当時はまだまだ試作品の域を脱しきれない装置であった〉という。[注11]
しかし志茂はその後、写真植字機を駆使して、『書窓』のほかにも北園克衛『夏の手紙』(1937年) 、村野四郎『體操詩集』(1939年)、川上澄生『ランプ』(1940年) 、竹久夢二『出帆』(1940年) などの書籍をつぎつぎと出版していった。
○「一書一書体」の理想
『書窓』は1944年 (昭和19) 6月、第17巻第6号をもって終刊した。第二次世界大戦の戦火が激烈さを増した1945年 (昭和20) 4月ごろ、志茂は故郷の岡山県久米南町山ノ城に疎開。岡山でもかたちを変えて出版はつづけたが、写真植字機は疎開の際、民間第1号機を購入した加藤製版印刷所にあずけられた。[注12]
志茂は、書物美術の根幹は外装だけでなく、美しい紙と美しい印刷にあるとかんがえていた。そして美しい印刷とは、その書物の内容と造本に合った活字で組まれていなくてはならないともかんがえていた。
紙に書いた文字をカメラで撮影して簡易文字盤をつくり、その文字を印字するという試みもした。「一書一書体」……、つまり、本には一冊ごとにふさわしい書体があり、それは本によって異なるから、その本ごとにその内容と造本に合った書体が使われていることが理想だと掲げる志茂にとって、写真植字機は、まさに夢を現実にする機械だった。[注13]
「活字を1本ももちいずに印字ができる」「文字盤1枚で大小の文字を印字できる」と活字活版印刷の代わりという視点でのみかんがえるひとの多かった時代に、志茂は「写真植字機であれば、多種多様な書体をつくり、文字印刷を豊かにすることができる」という、茂吉とおなじ理想を描いたひとだった。写植への熱情を恋愛にたとえた志茂は、写植の歴史を語るうえで、欠かしてはならない人物のひとりである。[注14]
(つづく)
※次回以降しばらく、毎月第2火曜日の更新となります。
次は7月8日更新予定です。
[注1] 志茂太郎「雑用手帳」、奥付『書窓』1 (1) 、アオイ書房、1935.4 p.80
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1774355 (参照 2025-02-05)
[注2] 志茂太郎「雑用手帳」『書窓』1 (1) 、アオイ書房、1935.4 p.80
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1774355 (参照 2025-02-05)
[注3] 志茂太郎「雑用手帳」『書窓』1 (1) 、アオイ書房、1935.4 p.80
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1774355 (参照 2025-02-05)
[注4] 志茂太郎「雑用手帳」『書窓』1 (2) 、アオイ書房、1935.5 p.160
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1774356 (参照 2025-02-05)
[注5] 志茂太郎「雑用手帳」『書窓』1 (3) 、アオイ書房、1935.5 p.234
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1774357 (参照 2025-02-05)
[注6] 志茂太郎「雑用手帳」『書窓』2 (1) 、アオイ書房、1935.10 p.78
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1774361 (参照 2025-02-05)
[注7] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.32には〈昭和十年四月、志茂氏の手によって好事家相手の随想誌「書窓」が創刊された。志茂氏は当初、書窓を単式印刷によって発行したが、昭和十年七月号から写真植字を利用し始め、後には全ページ写真植字の組版とした〉とあるが、1935年7月刊行の『書窓』第1巻第4号を確認したところ、写真植字が利用されたページが見当たらなかった。かつ、ここに引用した『書窓』第2巻第1号 (1935.10) の志茂太郎による「雑用手帳」の文面からしても、同誌が写真植字を初めて採用したのは1935年9月刊行の第1巻第6号、変形レンズを用いた目次の印字からなのではないだろうか。
なお、『印刷雑誌』昭和15年1月号 (印刷雑誌社、1940.1) に「アオイ書房主 写真植字機を設備」という記事が出たことがある (p.70)。印刷マニアが昂じるあまり、自分で印刷しなくては気が済まなくなり、石井茂吉の写真植字機を1台設備したという内容だ。しかし1940年 (昭和15) が購入時期ということは考えがたい。
2台目なのか、あるいは記事に「本機を利用して一般の注文による写植印字の仕事を引き受けるとある」ので、もしかするとその宣伝のために志茂が印刷雑誌に写植機設備のことを伝えたのだろうか。
[注8] 石井茂吉「写真植字機 ――光線のタイプライター――」『書窓』2(5) 、アオイ書房、1936.3 pp.399-407
[注9] 志茂太郎「雑用手帳」『書窓』2 (6) 、アオイ書房、1936.4 p.608
[注10] 志茂太郎「石井文字の美しさ」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.85
志茂は購入時期を〈一切の記録類が戦火で失われたので年代不詳であるが、昭和十年ごろと思われる〉と前掲書で述べているが、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.34に、〈写研の資料によると昭和十一年のことである〉とある。また、石井茂吉「写真植字機 ――光線のタイプライター――」『書窓』2(5) p.403の石井茂吉の「結び」を見ても、志茂がいかに写真植字機に研究熱心であるかに触れているにもかかわらず、彼が植字機を購入して自ら使用していることには触れていないので、購入は『書窓』2(5) 発行後のタイミング、1936年 (昭和11) 4月ごろと推測する。
[注11] 志茂太郎「石井文字の美しさ」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.86
[注12] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.148-149
[注13] 志茂太郎「石井文字の美しさ」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.87-88
[注14] 志茂太郎:しも・たろう。1900年 (明治33) 8月23日、岡山県久米南町山ノ城の酒醸家、志茂猶太郎の長男として生まれる。1919年 (大正8) 、誕生寺赤坂小学校より津山中学を卒業、東洋大学へ進学。1921年 (大正10)、結婚 (妻・田鶴恵) 。1924年 (大正13) 東京・北区王子に住み、東京酒販売会社「伊勢元」へ入社。1925年 (大正14) 、生家の志茂酒造を廃業。1929年 (昭和4) 、東京・中野区新井に「伊勢元」の支店を設け、同地へ移る。近在の版画家、恩地孝四郎と親交を結ぶ。1934年 (昭和9) 、酒店経営のかたわら「アオイ書房」を興し、徳川夢声著『くらがり二十年』を刊行。
1935年 (昭和10) 、恩地孝四郎の協力を得て、書物雑誌『書窓』刊行。1942年 (昭和17) 、出版統制令により「アオイ書房」を「日本愛書会」と改称。「伊勢元」を閉店。1943年 (昭和18) 、日本書票協会を設立。「書票暦」を頒布。1944年 (昭和19) 、『書窓』廃刊。1945年 (昭和20) 、郷里の岡山県久米南町に、版画家・前川千帆夫妻とともに疎開。同年、前川千帆〈閑中閑本〉1『文献偲糖帖』を刊行。1977年 (昭和52) 、日本書票協会を文化出版局に移管。同会名誉顧問に就任。1980年 (昭和55) 9月2日、80歳で死去。
上記、志茂太郎の来歴は、日本書票協会通信臨時増刊号『追悼 志茂太郎』 (日本書票協会、1980年12月) p.4 を参考にまとめた。
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇念の歩み〉』(写研、1975)
『書窓』各号、アオイ書房
倉敷ぶんか倶楽部 編『志茂太郎と蔵書票の世界』岡山文庫、発行 日本文教出版、2018
日本書票協会通信臨時増刊号『追悼 志茂太郎』 (日本書票協会、1980年12月)
片塩二朗「詩、活字になる タイポグラファ・志茂太郎小伝」『ユリイカ』2003年4月号 第36巻第5号、青土社、2003
片塩二朗『活字に憑かれた男たち』朗文堂、1999
荒木瑞子『ふたりの出版人』西田書店、2008
倉敷ぶんか倶楽部 編『志茂太郎と蔵書票の世界』岡山文庫、発行 日本文教出版、2018
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影
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