2025年7月3日に発売された『将棋世界2025年8月号』(発行=日本将棋連盟、販売=マイナビ出版)では、ヒューリック杯第96期棋聖戦五番勝負第1局の山本博志五段による観戦記「水のように、鏡のように」を掲載しています。

将棋の内容を詳細に解説しているのはもちろん、挑戦者の杉本和陽六段と同じ振り飛車党ならではの想いが鮮明に描かれていて、一編の小説を読むかのごとく、お楽しみいただける記事となっています。
本稿では、この記事より、一部を抜粋して、お送りいたします。

○山本五段の切なる思い

(以下抜粋)

2025年6月、96期もの物語を重ねてきた棋聖戦が今年も始まろうとしていた。永く深い歴史を持つ名宿「日光金谷ホテル」で。

「絶対王者」。藤井聡太棋聖はその四文字を体現する存在であり、一方ある意味での素朴さを持ち続ける将棋指しだと思う。その圧倒的な輝きは、盤を挟み対峙する者たちの姿をありのままに引き出してきた。時に残酷なほどに……。

それはきっと藤井が誰よりも純粋に将棋を究めているからであって、その純粋さが畏れを生み、鏡のように作用するのであろうと筆者は感じている。

挑戦者の杉本和陽六段はキメ細やかさと粘り強さを併せ持った多彩な振り飛車を武器に、一次予選から一気に檜舞台に駆け上がってきた。振り飛車の希望のように言われることも増えたと思うが、本人にとってはあまり関係ないだろう。杉本もまた、ある意味で素朴な人間で、自分が勝つこと以外にはあまり関心がないタイプである。

筆者はこの棋聖戦五番勝負を必死に勉強したい。
現代の振り飛車が絶対王者藤井棋聖を相手にどのように戦うのか……。自分自身が振り飛車で生き残っていくためのヒントを血眼になって探すつもりだ。

6月3日の朝、金谷ホテルの歴史あるホールに設営された対局場で駒箱は開けられた。プレミアムツアーに参加する多くのファンと関係者、報道陣が固唾を呑んで2人の和服姿を見つめる。

ふと壁を見ると、金の屏風や将軍の絵が飾ってある。多くの奇跡と熱量に支えられてタイトル戦は始まる。感謝と高揚の駒音は、やがて決然の響きとなり、葛藤のきしみとなるであろう。
○いろは坂を登るように

私はもともと偶然、観光で現地に訪れる予定だったが、ありがたいことに観戦記という大義名分を得た。しかし両対局者の人気もあり日光金谷ホテルは満室。よくわからずに中禅寺金谷ホテルの部屋を取って、対局場からバスで50分ということを知ったときは青ざめた。

先手を得た杉本はスラスラと進め、藤井は慎重に進めている。

(中略)

休憩に入り、藤井のほうが1時間以上消費する展開で局面も振り飛車不満なし。
杉本にとっては文句なしの立ち上がりである。もっとも藤井は横綱であるから、経験の少ない対振り飛車においても、がっちりと囲って足腰の盤石な展開にさえできれば十分という面もあるだろう。
現代において振り飛車の序盤は険しい山道のよう。杉本の序盤研究の深さ、幅広さは定評がある。あえて険しい山道を切り開いてきた杉本が、棋聖戦という名のいろは坂を上りきり、広く美しい藤井という名の中禅寺湖と対峙しているような情景を想起した。澄んだ水面に挑戦者の姿が映り込む。

(中略)
○藤井のえげつない終盤力

▲5一角成がモニターに映り、控室では声にならない悲鳴と嘆息。「鬼辛抱だね」と藤井猛九段。一気に先ほどまでの熱が冷めていった。局面は大差である。

最後の30分間に何が起こったのか簡潔に説明すると、難解極まりない局面でたくさんの枝葉の変化まで藤井は見えており、しかも実現可能性が高い△3二歩で勝ちという狙いもしっかり正しかった。それに比べると私はほとんど何も見えていなかった。

これは本当に恐ろしいことで、いま原稿を書いているこのときも落ち込んでいる。じゃあどうすればいいんですか!

日光も中禅寺湖も本当にすばらしく、私も外が明るいうちはいろいろな情緒を感じることができた。しかし暗くなってしまうと星しか見えない。私は何もわからなくなってしまったが、藤井はきっとあの満点の星を見てきれいな星座を描くことができるのだろう。

杉本はすばらしい舞台ですばらしい将棋を指し、序盤から中盤、終盤も自分のスタイルを貫いた。外が明るいうちは藤井と互角に渡り合っていた。その事実は揺るがない。

2日間、杉本を見ていて、とても顔色がよくいい意味で自然体だなと思った。三段の頃の先輩を知っているので余計に。地獄を見た男の柔和で自然体な姿に、私は密かに憧れと迫力すら感じた。

杉本ならばきっと暗闇の中でも自分を見失わずに戦い抜くだろう。あるいは暗闇を切り裂く光明を見つけ出せるか。
ただ正直、杉本に感情移入している場合じゃないと思ってしまった。私も棋士なので観戦記なのに自分ごとになってしまう。とにかく藤井とのあまりの差に愕然とした。何ともならないかもしれないが、何とかしたい。

(ヒューリック杯第96期棋聖戦五番勝負第1局 水のように鏡のように 記/山本博志)
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