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○蒙疆への出荷
1938年 (昭和13) 4月1日、国家総動員法が公布され、同5月5日に施行された。これによって、政府は戦争遂行のために、国の経済や国民生活をすべて統制できる権限をもった。物資や資源、労働力は軍需生産にあてられ、賃金や価格、言論や出版など、国民生活のあらゆる面を政府が軍事目的で統制することが可能となって、日本は軍国主義的な経済体制へと一気に突入した。
写真植字機の注文はつづいていた。写研の記録を見ると、この1938年 (昭和13) には中安製版印刷、鎌倉印刷、細谷真美館、陸軍燃料廠、内閣印刷局に各1台ずつ出荷している。そしてもう1台、蒙疆 (もうきょう) 新聞社にも出荷した。[注1]
1937年 (昭和12) 7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争のさなか、日本の占領下で内モンゴル自治区中部の察南・晋北・蒙古連盟の三自治政権による蒙疆連合委員会 (蒙疆政権) が設立された。蒙疆連合委員会は、1938年 (昭和13) 5月、一般民衆の教化、報道などを目的として蒙疆新聞社法を制定し、資本金40万円の株式会社蒙疆新聞社を設立。日本語、中国語、モンゴル語の各種新聞および蒙疆新聞の発行と、印刷事業の経営をおこなった。
蒙疆新聞社は、張家口 (ちょうかこう) で発行されていた蒙疆新報、綏遠 (すいえん) で発行されていた蒙疆日報両社の財産を現物出資として設立された。創業時の初代理事長は松本於菟男。
この蒙疆新聞社から、写真植字機の注文が入ったのである。1938年 (昭和13) の年も押し詰まった12月、茂吉は写真植字機研究所員の並木幸三と笠井弘康とともに、機械を出荷するため現地に向かった。茂吉が日本を発ったのは12月17日だったが、その前日、彼は印刷雑誌社の編集局にひょっこり顔を出した。『印刷雑誌』は、茂吉と信夫が邦文写真植字機に取り組み始めたころからその研究開発を追ってきた雑誌だ。茂吉は編集局にいた郡山幸男らに、きまじめな顔でこう言った。
「石井、何をやってるかとだいぶ心配をかけましたが、長くやっているうちには光が見えてきます」
ここのところつづいている写真植字機の注文、そして新たに蒙疆新聞社への出荷をひかえ、彼の研究をずっと見てきてくれた編集局に報告をしたくなったのだろう。[注3]
○立ち寄った満州で
日本を発つと、茂吉はまず満州に寄った。奉天の興亜印刷には、1934年 (昭和9) に納めた写真植字機が3台あった。当初は写真植字機研究所から派遣された印字部の所員が2、3人いたが、彼らはみな退社したり、徴兵されたりしていなくなり、1937年 (昭和12) に興亜印刷局に入社した佐藤行雄が責任者として、現地の社員を養成しながら孤軍奮闘していた。茂吉は並木と笠井を連れて蒙疆新聞社に行く道中、奉天で下車したついでに、佐藤の様子を見に行った。
やってきた茂吉に、佐藤は「写真植字機に調子の悪い個所があります」と指摘した。
茂吉はみずからの手で写真植字機を直せないことを残念そうにしながら、その修理方法を佐藤に伝え、去っていった。
「なんという几帳面な方なのだろう!」
あとに残された佐藤は、ただただ感心するばかりだった。[注4]
現地での指導
茂吉一行は、ようやく蒙疆新聞社に着いた。すぐさま彼らは、写真植字機の使い方の指導にあたった。
並木はこのときのことを、こう書き残している。
〈この新聞社 (凸版系) は、活字が1本もなく、写植機で新聞全面を組むほか、400ページにわたる大同案内記もつくった〉[注5]
調べてみたところ、『大同案内記』 (日本国際観光局大同案内所 発行、1939年)[注6] は活版印刷で、全41ページ。
また〈活字が1本もなく〉の記述についても、1939年 (昭和14) の状況をまとめたという『新聞総覧 昭和15年』(日本電報通信社、1940) には、蒙疆新聞社の主要設備として写真植字機1台のほかに、使用活字 6.65ポイント、字母設備 整備、活字鋳造機11台、凸版製版一式、外国製四六半裁活版印刷機4台といった活版印刷の設備が記載されている。[注8]
並木は実際に蒙疆新聞社を訪れているので、まったくのまちがいであるとはおもえず、茂吉たちが訪れたあと、理事長が松本於菟男から1939年 (昭和14) 2月に細野繁勝に交代し、工場の拡充をはかった際に導入されたものなのか、あるいは、日本語に関しては新たに用意する必要があったために、一からそろえるのが困難な活字をもちいず、写真植字機のみで印字されたということなのかもしれない。
(つづく)
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次は9月9日更新予定です。
[注1] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.48
[注2] タイムス出版社国際パンフレット通信部 [編]『国際パンフレット通信』(世界政治外交日誌第109輯/世界経濟日誌第45輯)(1112)、タイムス出版社、1938-06. p.46国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1895779 (参照 2025-05-28)
猪瀬五郎「蒙疆政権の機構と経済事情」『東京の貿易』1(4)、東京市、1938-10. p.35-41 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1549402 (参照 2025-05-28)
高木翔之助 著『蒙疆』、北支那経済通信社、1938.pp.108-111国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1876911 (参照 2025-05-28)
日本電報通信社企画部 編『最近の満洲国と北支蒙疆』、日本電報通信社、昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1094003 (参照 2025-05-28)
日本電報通信社 編『新聞総覧』昭和15年、日本電報通信社、1940.pp446-447 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1113417 (参照 2025-05-28)
[注3] 「蒙疆政府印刷部が写真植字機を設備」『印刷雑誌』21(12) 1938年12月号、印刷雑誌社、1938 p.59
[注4] 佐藤行雄「わたしの見た石井先生の横顔」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.75-76、佐藤行雄「青春の血を燃やした」印刷時報社 [編]『月刊印刷時報』2月号 (476)、印刷時報社、1984-02. p.21 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2025-05-25)
[注5] 並木幸三「『機械』と『文字盤』を仲介」印刷時報社 [編]『月刊印刷時報』2月号 (476)、印刷時報社、1984-02. p.26 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2025-05-25)
[注6] 『大同案内記』、日本国際観光局大同案内所、昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1122495 (参照 2025-05-29)
[注7] 岩崎繼生 著『蒙古案内記 : 附大同石佛案内記』、蒙疆新聞社、大阪屋號書店 、1939.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1885718 (参照 2025-05-29)
[注8] 日本電報通信社 編『新聞総覧』昭和15年、日本電報通信社、1940.pp446-447 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1113417 (参照 2025-05-28)
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇念の歩み〉』(写研、1975)
タイムス出版社国際パンフレット通信部 [編]『国際パンフレット通信』(世界政治外交日誌第109輯/世界経濟日誌第45輯)(1112)、タイムス出版社、1938-06
猪瀬五郎「蒙疆政権の機構と経済事情」『東京の貿易』1(4)、東京市、1938-10
高木翔之助 著『蒙疆』、北支那経済通信社、1938.
日本電報通信社企画部 編『最近の満洲国と北支蒙疆』、日本電報通信社、1938
日本電報通信社 編『新聞総覧』昭和15年、日本電報通信社、1940
「蒙疆政府印刷部が写真植字機を設備」『印刷雑誌』21(12) 1938年12月号、印刷雑誌社、1938
印刷時報社 [編]『月刊印刷時報』2月号 (476)、印刷時報社、1984-02
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影