2025年8月1日に発売された『将棋世界2025年9月号』(発行=日本将棋連盟、販売=マイナビ出版)では、ヒューリック杯第96期棋聖戦五番勝負挑戦者の杉本和陽六段による自戦解説「ヒューリック杯第96期棋聖戦五番勝負 過ぎ去った盤面とこれからの自分~シリーズ3局を振り返る~」を掲載しています。

第96期棋聖戦五番勝負を戦った杉本和陽六段に、第1局~第3局の自戦解説をお願いしました。
「失うものはもう何もないので(笑)何でも聞いてほしい」という杉本六段に、遠慮なく質問をぶつけています。また、最近は振り飛車もよく指している佐藤天彦九段による寄稿文「盤上真理と人間理解のハーモニー」も掲載しています。

(以下抜粋)  
○対藤井聡太棋聖のアプローチ

―今回の棋聖戦五番勝負は、振り飛車の使い手である杉本和陽六段のタイトル初挑戦ということで話題を呼びました。絶対王者・藤井聡太棋聖の壁は厚く、結果はストレート負けでしたが、シリーズを吹き抜けた初陣の風は観戦者には爽やかに映ったことでしょう。いまある胸の内を率直に吐き出すことで、新たな挑戦につなげていただければと思います。

杉本 私自身、今回の舞台は貴重な体験になりましたし、失うものはもう何もないので(笑)、何でも聞いてください。

―では、時系列的に伺っていきます。4月25日に挑戦権を獲得してから、打倒藤井聡太を旗印に、どのような戦略イメージを抱いて過ごされたのでしょうか。  

杉本 生活パターン自体は普段と変わりありませんでした。準備段階で行ったのは、もっぱらAIを使った研究ですね。第1局のあとも第2局までは、その姿勢を貫きました。具体的なテーマとしては、振り飛車の存亡に関わるような急所の場面をどんどん掘り下げ、主要な変化手順を突き詰めていくようなアプローチを実行しました。


それはどういうことかと言うと、居飛車対振り飛車の対抗形では重要な想定局面からスタートして、可能性の高い指し手をどんどん進めていくと、最終的には居飛車よしに行き着く変化が、先後問わずいろいろあるんです。でもそうは言っても、それらは振り飛車側が最終盤までギリギリのところで最善を尽くしているので、居飛車側も本当に間違えず勝ちきれるかどうかは怪しいリスクをはらんでいます。

いかにも振り飛車側が潰されそうな危うい変化であっても、そしてAIがダメな評価値を示しても、実際にはスレスレで人間的には難解というコースです。戦略的にそういう順に持ち込むことができたなら、ひょっとして泥沼の中に勝機を見いだせるかもしれないと考えました。しかし結果的にですけれど、今回の3局とも藤井棋聖は際どい攻防の果てに勝負が決まるきつい指し方を選んでくる気配がありませんでした。

だから、どうだったんでしょう。決め打ち気味に深い研究に浸かったやり方が、実はあまりよくなかったような気がいまはしています。藤井棋聖に中盤以降、早々と力で勝負、のスタンスを打ち出されるのが実はいちばんしびれるのを痛感しました(笑)。3局目の前にはAI研究のほかに、奨励会の若者と早指しで出現率が高そうな形を指してもらい、ラフな実戦感覚を磨いたりもしたんですけれど……。

1、2局の前にはあまり緩い感じのトレーニングができていなかったので、全体的にもっと鷹揚に構えるんだったかなあという心残りはあります。現実的にどう戦うか、戦型的な選択というのも相手が誰であれ常に切実なんですが、今回はよけいシビアな苦悩に陥り、後手番の戦い方は最後まで頼れる何かを見つけ出すことができませんでした。まともにいっては厳しいので、一発狙いにいくいい作戦を模索したんですけれど……。


そうなるといかに先手番をキープできるかに全てがかかってくるわけですが、これも容易ではありません。戦型選択には迷いました。大筋として決めたのは、格上相手にぶつけて勝つチャンスが生じやすい作戦を採ろうということです。できれば穴熊に組ませ、事前研究に裏打ちされた持久戦に持ち込むのが最も有力と考えました。

(中略)

―今回のタイトル戦の経験を糧に杉本さんはこれから先、どういう道を突き進むのでしょうか。まさか振り飛車を裏切るなんてことはないでしょうね(笑)。

杉本 この敗戦は決して振り飛車という戦法のせいではなく、自分の中終盤力が不足していたせいです。これからも、振り飛車を貫いていこうと思っています。

―実はいい機会なので、このところすっかり振り飛車党に鞍替えした感のある佐藤天彦九段に、軽い気持ちで寄稿文を頼んだんです。そうしたら大切な時間を割いて大論文を送っていただき、うれしい悲鳴が上がりました。佐藤九段、ありがとうございます。私からの質問も整理し、ほぼ全文を問答風に構成して紹介します。


* * *
○佐藤天彦九段による特別寄稿メール「盤上真理と人間理解のハーモニー」

問)振り飛車への佐藤九段のフィット感を伺います。この戦法への現在の理解や思いは、いままで培ってきた将棋哲学との相性やアイデンティティーとの両立といった視点からどうなのかご教示ください。「佐藤天彦と振り飛車」という一大テーマを、どのように把握しておいでなのか。その高邁な到達点や来し方行く末について、ご自由に語っていただければ。

答)フィット感についてですが、振り飛車という領域全体を考えると、全然まだまだだと思います。昨年は振り飛車の一部を戦略的に用い、中にはハマったところもあり、内容と結果に満足しています。とはいえ、これから先のことを考えると課題は多く、大きいです。昨今は居飛車の急戦も強烈になっており、振り飛車らしい駆け引きの要素を無化する要因になっています。

当然ながら持久戦系統も大変で、経験も理論も両方足りないと感じます。どちらも備えることができれば、いま思われているほど不利ではない戦い方が、振り飛車でもできるような気もする(と思いたい)のですが、ハードルは高いですね。その間に支払う勉強料も多そうです。こういう言い方をするのも何ですが、今年はそういう意味で、振り飛車の課題に正面から当たらないといけないかもしれないので、勝率的には上がらないかなという気もします。
そんな中で、方向転換がまた行われるのか、そのまま行き続けるのかは自分でもそういう状況になってみないとわからないです。

(中略)

問)今期棋聖戦における挑戦者・杉本さんの戦いぶりはどうご覧になりましたか。

答)第1局は、振り飛車党に希望をもたらすようなすばらしい戦いでした。▲5七同銀は杉本さんの個性と(飛車を攻めに使うことにこだわらなくても玉頭戦を挑めば勝負になるという)判断力が出た一着とお見受けしました。そのような戦い方で藤井さんに迫った姿に勇気を得た振り飛車党はプロアマ問わず多かったのではないでしょうか。第2局は第1局とはコインの裏表のようで、振り飛車党の絶望を感じさせました。

このような負け方は振り飛車を使ううえでは誰でも恐れるところで、そして振り飛車党なら誰もが経験することでしょう。第3局は僕も実戦でよく指すような中盤が長い展開で、そこからの終盤の急展開はなかなか予測しづらいものだったと思います。藤井さんならではの切れ味で、振り飛車目線でこのような展開を予測するのは難しいところですよね。

どのような見方をするかはそれぞれですが、中盤は十分に難しそうな作りでもあり、あまりこういう負け方を気にしすぎても仕方ないような気もします。3局とも全く異なる展開で、藤井さんと現代振り飛車党が相対したときにどのような戦いになるのかを見せてもらえた番勝負となり、楽しく拝見しました。僕のほうが振り飛車党としては後輩ですし、杉本さんに発破をかける立場でもないですが、多くのファンに好勝負を観てもらえた経験は大きな糧になるはずです。


今後どの戦法を用いるかも含め、全て杉本さんの思うがままですが、今回の番勝負全体、特に第1局で見せてくれた伸びやかな感性と杉本さんらしい判断力を用いた好局を今後も期待しています。

* * *
○いまを生きる

杉本 佐藤九段の個性を貫かれる将棋や気品のある立ち居振る舞いには憧れがありました。温かいお言葉を、大変うれしく思います。AI、そして振り飛車ですよね。佐藤九段が抱える重い命題は私も心に刻み、思考を重ねていきたいです。

―では改めて総括的に振り返ってもらいましょう。まずは藤井棋聖について。

杉本 若き王者が常に最善を追求する真摯な姿勢は、普段からいろいろな媒体で拝見していたのですが、一対一で盤を挟むと生の迫力とすごみを感じました。加えて、あれだけの実績を挙げられながら一手一手読み尽くして純粋に盤上と向き合っておられる姿には、大切なことを教えていただいたと思っています。第1局と第3局は感想戦で終盤の難解な局面を検討していて、読みの速さや正確性を直接感じることができました。

ただ終盤力については客観的に見て、私とは大きな差があるのはわかっていたので新しい驚きはありませんでした。第1局は対局後にSLの機関庫を見学する機会がありました。
その帰りの列車内で、鉄道をテーマとしたトークをしたのですが、その際に少しお話しできたのが光栄でした。盤面に向かう鬼気迫る姿と盤外での柔和な自然体が対照的で、印象に残りました。

―これからのご自分の生き方も含めた覚悟や決意などはいかがでしょうか。

杉本 タイトル戦は全てが非日常で、新鮮な舞台でした。普段話せないような方とも多く話せましたし、ファンの方々の姿を間近に感じられたのも有意義な機会でした。ほとんど緊張することもなく、盤上に集中することができました。対局後はすさまじい疲労感がありましたが、やはりまたこの舞台に立ちたいと思うようなすばらしい空間でした。

こうした非日常を味わうためにも、普段の日常を着実に歩んでいこうと思います。今後の課題についてですが、いまの自分の実力では戦法云々はあまり関係がないところなのかな、と思っています。自分の勝ちパターンに頼るだけでは今後の成長が難しいと感じましたので、根本的な実力の部位を伸ばすことを意識していきたいです。具体的には読みの絶対量を増やしたいです。

例えば、第1局や第3局のような難解な終盤戦を自力で考え抜いて結論を出す。詰将棋を何時間も解いて根気を養う。そうした作業を繰り返して読みの筋肉を増やしていけたらと思っています。自分の脳を使う肝心な時間があまりにも少なくなっていましたね。AIで終盤まで掘って、それを暗記していくような作業は少し減らしていこうかな、と。師匠の米長邦雄の言葉を借りれば、脳に汗をかくような昭和のトレーニング法に回帰して、根本の足腰を鍛えていこうと思います。

(ヒューリック杯第96期棋聖戦五番勝負 過ぎ去った盤面とこれからの自分~シリーズ3局を振り返る~ 自戦解説&追想/杉本和陽六段 インタビュー&構成/住吉薫 特別寄稿/佐藤天彦九段)
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