素朴さや温かみ、昭和の手触りを今に伝えるブリキのおもちゃ。現在、埼玉県三郷市に工場を構える「メタルハウス」は、昭和28年(1953年)創業で60年に渡り、ロボットをはじめとしたブリキのおもちゃを世に送り出してきた。
「近々消える」というブリキ玩具の現状を、兄弟でブリキのおもちゃ専門工場「メタルハウス」を営む宮澤兄弟に尋ねた。

【関連】消滅寸前の「ブリキのおもちゃ」 それでも作り続ける職人兄弟<フォトギャラリー>

 「親父が昭和28年に独立しておもちゃの会社を始めて、私は昭和42年に親の会社に入ってそれからずっと。中学・高校になった頃には『親の後を継ぐんだな』と思っていたし、特に抵抗なくスーッと入りました。もっと頭がよかったり悪かったりすればいろいろ考えたんだろうけど、頭が普通だからスーッと入ったんです(笑)」

 宮澤兄弟が仕事を始めた当時の従業員は「15~20人ぐらい」。現在は手作業でロボットを組み立てているが、当時はベルトコンベアーの流れ作業で製作を行っていたという。
 「おもちゃ屋っていうのは町工場で小さいけど、印刷は印刷会社、塗装は塗装屋さん、ゼンマイはゼンマイ専門のところがあるからそこに頼んで、やっていることは一丁前に大きな会社と同じようなやり方をしているんだよね。部品を作ってもらって集めてきて、工場でやっていることというのはいわばアッセンブリー。完成品にして箱に詰めて出すと。でも今は見る影もなくて全部コツコツやっています」

 時代の移り変わりとともに、ブリキのおもちゃと工場を取り巻く状況も変化してきた。「昭和の終わりに父が亡くなったので工場を閉めて、違う場所へ移って平成の20年間ぐらいは人を7~8人減らしてやって、ここには一昨年移ってきました。今は弟と2人で、忙しい時は手伝ってもらう時もあって最大で3人です」

 現在の生産数は年間で1500個。ブリキのおもちゃ華やかなりし頃は「うちは町の工場でちっちゃい方だったんだけど」と断りながら、「月に3万個ぐらい出していましたね。
だから年間で36万個。それぐらいの規模だから流れ作業でやらないとできなかった」という。 ブリキがおもちゃの主役から後退していったのには様々な事情がある。まずは昭和40年代にプラスチックのおもちゃが台頭、これによりコストと手間の削減が可能となった。
 「ブリキの場合はプレスの機械でコツコツ作って、できた部品もバラバラだから、また組み立てなきゃならない。でもプラスチックはガチャってやれば1発でできて手間が省けるから、それでみんなプラスチックに変わったわけ」

 そうした生産面での現実的な問題に加え、ブリキのおもちゃは角があるから危ない、中に含まれる鉛を子どもが口にしてしまうと危ない、と敬遠され始めた社会的風潮もある。

 「おもちゃだけでなく何でもそうだもんね。世の中の流れには逆らえないし、そこに上手く乗れないところは消えていく。だから本当は子どもに売りたいけど、それはもう20年前、昭和で終わり。今は“昔の子どもさん”で、おもちゃが好きな人に売っています」

 昭和の時代に思いを誘う愛好品として市民権を得ているブリキのおもちゃだが、今後の展望は決して明るくないという。「おもちゃを作るには、安い部品だけどいろんな部品を使う訳。世の中の人は今作っているからこのままずっと作れるでしょと思うかもしれないけど、部品を作ってるところがみんな辞めちゃっているから、部品が無くなった時点でできないおもちゃが出てくる。


 たとえば歯車だって昔は安く買ってきていたけどそこはとっくに辞めちゃっているし、やろうと思ったら型から作らなきゃいけなくて、今は個数がそんなに出ないし総額の問題が出てくる。もう金屋さんもいい歳でみんな70とか80だから、実際にいつまでできるかという商売になってきているんです」すでにブリキのおもちゃを専門で作っているのは、メタルハウスと葛飾の三幸製作所だけであるという。

 「後継ぎもいないし、どっちにしても近々消えますよ。もう目の前に見えてる。みなさんはブリキのおもちゃを作ってるところがあるからそのうち買えばいいやという感覚かもしれないけど、そうじゃないんです。これは売ろうと思って言っているんじゃなくて部品があるだけ、できるだけしかできない。だから限定品です。もう少しで、『そういえばブリキのおもちゃってあったんだよね』『作ってるところあったんだよね』っていう話になるんじゃないですか」

 懐かしさ、そして消えゆくもののエレジーをまとい、ブリキのロボットはいっそう愛しさを増して映る。(取材・文・写真:しべ超二)

■■有限会社メタルハウス
 埼玉県三郷市新和4‐210‐2
 (商品は公式サイトからも注文可能)
編集部おすすめ