クリストファー・ノーランは写実主義の映画作家であり、監督だ。ズームイン・アウトやスローモーションといった、人間の眼球メカニズムにはない撮影技法は極力避け(状況に応じて用いるケースもあるが)、あくまで現場におけるカメラモーションを観客と同期させ、彼らがその場にいるかのような緊迫感を生み出している。

そのためカメラ自体が、人的操作や軌道を超えるようなアクロバティックな動きをすることはない。今や映画は、CGIによって物理的法則に縛られないビジュアルを作り出すことが可能となったが、ノーランはあくまで実カメラでの撮像に比重を置く映画制作を維持させている。

【写真】ノーランが視覚表現を突き詰めた『TENET テネット』フォトギャラリー

◆デジタルでなくフィルムであることのアドバンテージ

 映画史上最大の上映フォーマットであるIMAXを好むのも、自らの主義をより頑強にするためだ。彼はフィルムメディアが持つ解像度やダイナミックレンジ(映像の明るさの最大値と最小値の比率)の広さこそが、デジタルに勝るアドバンテージのひとつだと唱え、劇場映画の標準規格である35mmの約10倍の大きさを誇るIMAXフィルムを撮影に用いている。面積の大きさに比例し画質の上がる同媒体において、高精細かつ小さな被写体をも明瞭に映し出すIMAXフィルムは、かつて教育ものやドキュメンタリーを主とした大型映像作品に用いられてきた。ノーランはそれを『ダークナイト』(08)から商業長編劇映画に生かし、デジタル3Dに頼らずレンズの向こう側にいるような臨場感を観る者に与えてきた。

 そんなノーランが最新作『TENET テネット』では、常識から大きく外れた異型なビジュアルを作りあげている。

◆難解なストーリーだが観客を飽きさせない発展性のあるドラマ

 人類を破滅へと導く未来人の最終目的を阻止するため、選ばれしCIAエージェントが正義のミッションを遂行していく本作は、飛躍的な発想を高度な科学考証で補強し、分解したピースを観客に組み立てさせるような、受け手への配慮などどこ吹く風のSF映画だ。また時間を逆にたどる高度なテクノロジーがあるのならば、ひるがえって人類の存在にすら影響を及ぼすというドラマの発展性が秀逸で、複数に用意されたアクションステージとの合わせ技で、観る者の興味を途切らせることはない。時間を往来した先にあるキャラクターどうしの因果な出会いは、シニシズム(冷笑主義)な傾向のあるノーラン作品としてはエモーショナルで、また時へのいたずらな干渉は、人を悪魔にも救世主にもしてしまうという運命の左右をもシビアに映し出す。

◆回文的なタイトルに隠された映像的な試み

 それ以上に本作がもたらす体験の最たるものは、正逆異なる物体の運動が、ひとつのフレーム内に入り混じるという図像の奇妙さだろう。順行の被写体が、逆に流れる運動下でのカーアクションや銃撃戦を繰り広げ、やがては人類粛清の阻止をめぐる一大軍事作戦へと展開。
スペクタクルな見せ場としてスケールが拡張されていく。

 近年、運動が逆転する視覚表現は『ドクター・ストレンジ』(16)や『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(16)などのファンタジー映画で観ることができるが、どれも一線方向であり、かつ大規模なCGIによって創造されたものだ。ノーランの本作における試みはエントロピー反転や時間同士が挟み撃ちをする攻撃展開など、回文的なタイトルが暗示しているように対称性を含み、それらは階層化された複雑さを持ちながらも先述した写実志向に基づき、キネティックな動的快楽に充ち満ちている。

◆視覚効果(CGI)のショットは300以下!

 こうした創意に満ちた映像は、さぞ複雑なVFX工程を経て創造されていると思いきや、むしろ視覚効果関連のショットはわずか300に満たない(※1)のだから驚異的だ。ノーランと撮影監督のホイテ・ヴァン・ホイテマを中心とするスタッフは、IMAXカメラの機構やレンズに手を加えて逆転撮影(ならびに被写体への接写)を可能にしたり、順逆の動きを演技に取り込んだ現場でのパフォーマンスや、逆再生フッテージ等との巧みな組み合わせによって、正逆の運動が交わり衝突をなすヴィジョンの数々を生み出している。もともとデジタル加工への過度な依存にノーランは批判的で、『バットマン ビギンズ』(05)の撮影時に彼は「(映画は)現実からどんどんとかけ離れていっている」(※2)と答え、CGIに視覚的創造の多くを求めはじめてきたハリウッドメジャーに対し、違和感を募らせていたのだ。@@separator◆ノーランが偉大な先人たちと共有する過度なCG表現へのアンチテーゼ

 もちろん100年以上にわたる映画史において、ノーランが『テネット』で挑んだような逆回転の映像アプローチには先行者がいる。有名なところでは『詩人の血』(32)『美女と野獣』(46)のフランス人監督(詩人でもあり作家の)ジャン・コクトーが挙げられるだろう。正像の中に逆転撮影のモーションショットを忍ばせることで、コクトーは自作にファジーな幻想感覚を漂わせてきた。ノーランとは趣向の違いや、時代的な技術の制限はあるにせよ、彼もまた実カメラから得られる撮像トリックを、創造的パーソナリティーへと昇華させていった重要人物のひとりだ。

 しかもその手法は思想として受け継がれ、後年、そんなコクトーのカメラ内におけるトリック撮影を継受し、再生させた者もいる。『ゴッドファーザー』(72)、『地獄の黙示録』(79)のフランシス・フォード・コッポラは、1992年の『ドラキュラ』で同じアプローチをとり、先人へのオマージュと、ハリウッドの行き過ぎたVFX依存へのアンチな姿勢を示している(もっともコッポラの場合、物語の時代に撮影技術を合わせた意図もあるが)。
ノーランもまた、これら偉大なる先輩と同じイデオロギーを共有しているといっていいだろう。

 加えてノーランのこのような取り組みは、自身が主導しフィルムプリントでのリバイバル上映をおこなった『2001年宇宙の旅』(68)の特殊撮影アプローチに通底するものがある。同作において監督のスタンリー・キューブリックは、合成処理を極力避け、多重露出でひとつのコマに複数の画像を重ねるなど、カメラ内で効果を生み出すことに細心の注意をはらっていた。長年ワーナー・ブラザースを創造のパートナーとする共通点を持ち、キューブリックの信奉者として名高いノーランだけに、同作で65mmという大型フィルムを扱った氏のスタイルには、尋常ならざるシンパシーを感じていたに違いない。

◆ノーラン作品の“時間へのこだわり”が示すもの

 ここまで記すと、ノーランが毎作ごとに示している「時間」へのこだわりは、むしろ自分のビジュアル表現への追求を正当化させるための、便宜的な手段とも思えてくる。本末転倒ではないが、軍事上の撤退作戦を描いた前作『ダンケルク』(17)における、スパン(時間間隔)の異なる三者の視点を切り替えながら進行していく構成を思い出してほしい。三者が一点においてシンクロする箇所のみ高揚をもたらすものの、全体の緊張を持続させる効果があったかと言えば、むしろ寸断ぎみだった印象を受ける。今回も視覚上のインパクトを優先したことで、科学的な矛盾や齟齬(そご)などが生じている部分もあり、議論は活発化するだろう。

◆大胆な賭けに勝利したノーランと『TENET テネット』の価値

 なにより冒頭で言及した視覚表現の約束事は、表現域の広いCGIショットに比べると構図や動きに制限を与えてしまい、新鮮なイメージの提供という点では不利であることも否めない。それを打開する一助として、ノーランは巡行VS逆行時間の対立を可視化し、ケレン味に乏しくなりがちな写実重点主義にアクセントをもたらし、結果として今回、その大胆な賭けに勝利したといっていいだろう。巨大なスクリーンの前に身を置くと、ライブを主体としたビジュアルが見せるイメージの数々に、われわれは理屈を超越した圧倒的興奮を覚える。

 だがそれ以上に、かつてはインデペンデントの土壌で創意工夫を重ね、同時に先達の意思を継受しながら映画を作ってきたクリストファー・ノーランの、“フィルムメイカー”としての立脚点を改めて認識させられた。
『TENET テネット』に価値を見出すとしたら、自分はそこに尽きるのだ。(文・尾崎一男)

※1 IndieWire「‘Tenet’ Has Under 300 VFX Shots: Nolan Says ‘It’s Lower Than Most Romantic Comedies’」(2020年8月6日掲載)
※2 『Newsweek日本版』(CCCメディアハウス)2005年6月22日号特集「バットマンの新たな旅立ち」より

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