秋雨の降る明治通りの交差点に、パレスチナ解放闘争の戦士は立っていた。白髪だが、肩幅はがっしりしており、真っすぐに伸びた背筋に意志の強靭さを感じさせる。
映画表現だけに留まらず、現実世界においても闘い続けた足立へのインタビューは、代々木にある映画会社「太秦」にて行なわれた。
──映画『止められるか、俺たちを』をご覧になって、いかがでしたか?
足立 試写の後、白石くんからも「どうでした?」と尋ねられ、僕は激賞しましたよ。今の若者たちにきちんと伝わるものになっています。でもね、僕が褒めると、みんな皮肉を言っているように感じてしまうようだね(笑)。白石くんは暴力の連鎖の中にいる人間を描くのが得意な監督だけれども、今回はヒロインであるめぐみ(門脇麦)の心情に丁寧に寄り添ったドラマになっている。
──白石監督も、脚本を担当した井上淳一氏も「若松プロ」出身なだけに、レジェンドたちに対するリスペクトと自身の青春時代と重なることもあって、甘く感傷的になった部分があるのかもしれません。撮影前に足立さんから助言などはされたんでしょうか?
足立 「当時のみなさんの心情が知りたい」と白石くんに呼ばれ、原宿の飲み屋にレジェンドが全員集まりました。
──『止め俺』が描いた時代は日本のインディーズ映画の黎明期であり、また足立さんや若松監督にとっても青春時代だった。
足立 僕も若松も20代だったからね。最初に出会ったとき、僕は24歳で、若松は27歳だった。それから7年間いっしょだった。
──社会に対して閉塞感を感じていたということですが、具体的にはどういうことでしょうか? 今から見ると自由な時代に感じられますが……。
足立 映画を武器に、世の中をかっさばいてやろうと時代と向き合っていたわけです。だから、「若松プロ」は他にはないエネルギーが充満していたんだと思います。でも、あの時代は高度経済成長による歪みが生じるようになり、社会格差も大きくなりつつあった。そんな中で若者たちは、自分は何をすればいいのか分からずに袋小路に追い詰められているような心境だったんです。今も似たような閉塞状況になっていますが、当時の若者たちは袋小路にいる状況を楽しもうとする心の余裕がまだあったように思います。僕は若松孝二や大島渚と共に仕事をしたわけですが、2人とも映画界の主流からはずれた存在。「若松プロ」に集まっていた連中は、はずれの中のはずれですよ(笑)。はずれでもいいんだ、だからこそ映画をつくれるんだというのが面白かった。■ケンカ上等! 殺気立っていた当時の「若松プロ」
──『ゆけゆけ二度目の処女』(69)や『性賊 セックスジャック』(70)など、若松作品にはマンションの一室やビルの屋上といった逃げ場のない設定が多いのは、当時の若者たちの心境を反映させていたんですね。
足立 そうです。当時の閉塞状況を映画構造として描いたものだったんです。ビルだろうが街だろうが田舎だろうが、追い詰められた自分たちは走り回ってばかりいる。そんな状況を映画に撮った。そんな時代でしたね。
──足立さんの監督作『断食芸人』に主演した山本浩司が、若き日の足立さん役に。
足立 山本さんはとても心の優しい人で、僕の一面をうまく演じてくれた。僕も本質的には寂しがり屋の優しい男なのですが、当時はキレることも多かった。あの頃の僕は「酔っぱらいゴリラ」と呼ばれていました(笑)。ゴールデン街でいつも酔っぱらっていましたから。訳の分からない理屈を振り回しては、周囲をけむに巻いたり、とっちめたりしていました。若ちゃんと僕とで飲み屋に行くと「ホラ吹きと詐欺師が来たぞ!」と言われたものです。ちなみに僕が「ホラ吹き」で、若ちゃんが「詐欺師」です(笑)。
──『止め俺』の中でも若松監督(井浦新)と「あっちゃん」「若ちゃん」と仲良く呼び合っていますが、出会った当初は犬猿の仲だったそうですね。
足立 若ちゃんは僕を潰すつもりで、「若松プロ」に呼んだんです。僕が大学時代に撮った自主映画がアートシアター新宿で特集上映され、行列ができているのを見て、生意気なヤツだと感じたんでしょう。僕が呼ばれて「若松プロ」へ行くと、いきなり台本を渡されて「明日から助監督な」と言われた。撮影現場ではさんざんな目に遭いました。それで、みんな僕が若松に殴り掛かると思っていたんです。数日間、自宅のアパートにいたんですが、知人が「これから一緒に若松さんのところに行こう」と誘う。殴り込みに付き合ってくれるのかと思ったら、彼は一升瓶を持って、これを渡せというわけです。「若松孝二を殴りにいくのなら、俺を殴ってからにしろ」なんていう男を殴るわけにはいきません。それで一升瓶を手に、「ごぶさたしています」と訪ねた。あの頃はどんなにケンカをした相手でも、一升瓶を持っていけば、それで仲直りできたんです。最初の一作目は険悪な関係でしたが、その後は若ちゃんに頼まれて僕は脚本を書くようになり、親しい関係になった。僕に一升瓶を持たせた男は、今はロスでお坊さんしていますよ。
──そのときケンカ別れしていたら、「若松プロ」は数々の伝説を生み出すこともなかったわけですね。
足立 いやいや、大和屋竺さんを中心にした日活の助監督グループが「大谷義明」名義ですでに脚本を書いていましたし、京都大学で大島渚と演劇活動していた吉沢京夫さんが『壁の中の秘事』(65)の脚本に参加していました。すでに、いろんな才能が集まっていた。単にピンク映画の脚本を書いてお金を稼ごうというだけじゃない、自分たちの問題意識を映画の中で解決しようというのが当時の「若松プロ」には感じられた。その様子を見て、僕も「うまく若松孝二という神輿を担ぎ上げればいんだな」と分かったんです(笑)。
──後にアニメ『ルパン三世』(日本テレビ系)の脚本家として知られることになる大和屋竺をはじめとする日活の助監督グループは、「具流八郎」名義で鈴木清順監督のカルト作『殺しの烙印』(67)の脚本を手掛けましたが、『殺しの烙印』がきっかけで清順監督は日活を解雇されることに。一方、「若松プロ」には大手映画会社にはない自由な空気があった。
足立 ピンク映画というフィルターを通すことにはなるけれど、表現の場としての自由があった。そこへスキャンダリズム、実録事件ものが大好きな僕が加わって、ガンガンガンと大騒ぎを始めたってことだね(笑)。
──足立さんが「若松プロ」で脚本を書き始めた『引き裂かれた情事』(66)と『胎児が密猟する時』(66)は「大谷義明」名義ですが、その後『日本暴行暗黒史 異常者の血』(67)からは「出口出」を名乗ることに。
足立 うん、若ちゃんが脚本家名をペンネームにしているのなら、そのシステムに従おうと思った。大和屋さんたちの使っていた「大谷義明」を最初は名乗ったけれど、明らかに『胎児が密猟する時』はそれまでの「大谷義明」とは作風が違っているわけです。若ちゃんから「次からはお前の名前で書いていい」と言われ、新しいペンネームを使うことにしたんです。
──「出口出」という名前の由来は?
足立 僕がシナリオを書いた『胎児が密猟する時』は、あまりに暴力的でグロすぎると配給側から劇場公開を拒否されてしまった。シカゴで起きた看護婦連続殺害事件をヒントにした『犯された白衣』(67)も同じ目に遭った。若ちゃんが「これで運営資金はゼロだ」と嘆いていたので、僕から「映画会社が配給してくれないなら、自分らでやればいい」と言って、それで若ちゃんと僕とで35ミリフィルムを担いで、大阪行の夜行列車に乗ったんです。大阪で上映してくれそうな映画館に直接売り込みに行った。これが成功して、3日間だけの上映だったはずが1週間、2週間、1カ月と上映され、ようやく資金を回収できた。でも、配給側にすれば僕らが勝手に営業しているのが面白くない。このままじゃ、本当に戦争になるな。名前を変えよう。それで、この閉塞状況から脱出しよう。新しいペンネームは「出口出」でどうだと僕が提案すると、「シンプルでいいな」と若ちゃんも同意してくれた。ピンク映画の黒澤明と呼ばれた若松孝二にも大変な時期があった。「出口出」はそんな状況を打破してやろうという意味を込めたものだったんです。
※インタビュー後編に続く
(取材・文=長野辰次)
『止められるか、俺たちを』
監督/白石和彌 脚本/井上淳一 音楽/曽我部恵一
出演/門脇麦、井浦新、山本浩司、岡部尚、大西信満、タモト清嵐、毎熊克哉、伊島空、外山将平、藤原季節、上川周作、中澤梓佐、満島真之介、渋川清彦、音尾琢真、高岡蒼佑、高良健吾、寺島しのぶ、奥田瑛二
配給/スコーレ 10月13日よりテアトル新宿ほか全国順次公開中
(c)2018若松プロダクション
http://www.tomeore.com
●足立正生(あだち・まさお)
1939年福岡県北九州市生まれ。日大芸術学部映画学科在学中に監督した『椀』(61)が学生映画祭大賞を受賞。若松孝二監督作『血は太陽よりも赤い』(66)に助監督として参加。以後、出口出のペンネームで『日本暴行暗黒史 異常者の血』(67)、『ゆけゆけ二度目の処女』(69)、『性賊 セックスジャック』(70)などの脚本を手掛けた。監督作として『女学生ゲリラ』(69)、『略称・連続射殺魔』(69)、『噴出祈願 十五歳の売春婦』(71)などがある。また、大島渚監督の『絞首刑』(68)に俳優として出演したことがきっかけで、『帰ってきたヨッパライ』(68)、『新宿泥棒日記』(69)の共同脚本にも参加した。『赤軍 PFLP 世界戦争宣言』(71)を若松孝二と共同監督。74年に日本赤軍と合流し、国際手配される。97年にレバノンで逮捕され、3年間の禁固刑に。2000年に日本へ強制送還され、『幽閉者 テロリスト』(07)、『断食芸人』(16)を監督している。