作家として、そして政治家として世間の注目を浴び続けた石原慎太郎氏が2月1日に亡くなった。名優・石原裕次郎を弟に持ち、「裕次郎の兄です」と自己紹介することもあった石原氏だったが、その存在感は稀代の映画スターをも凌駕するものだった。
「石原氏は、一橋大学在学中に発表した小説『太陽の季節』(新潮社)で芥川賞を受賞し、原作と脚本を務めた映画『狂った果実』(1981)が、弟・裕次郎の主演で大ヒット。日米関係を描いた評論『「NO」と言える日本』(盛田昭夫氏との共著、光文社)や、裕次郎を描いた『弟』(幻冬社)はいずれもミリオンセラーとなりました。一方、政治家としては環境庁長官、運輸大臣、東京都知事など要職を歴任。発言の影響力はその時々の首相にも匹敵し、昭和から平成にかけて、常に時代のキーマンとなる人物でした」(週刊誌記者)
都知事時代には東京マラソンの開催、東京五輪の誘致、ディーゼル車規制など、数々の政策を実行。4度にわたる都知事選はいずれも圧勝だったが、これほど批判に晒された政治家もまた稀だった。
「石原氏が類まれなる実行力の持ち主だったのは誰もが認めるところですが、トップダウン式の独裁的な手法がすべて正解だったわけではありません。
称賛と批判が交錯するのは政治家の常。そんなことは本人も重々承知しており、自らのことを「暴走老人」と称したが、都民にとって忘れられない、氏の実行力を表す政策が「カラス退治」だ。
「石原氏が都知事になった2000年前後、都内には3万羽以上のカラスがいて、市民生活の大きな妨げになっていました。鳴き声による騒音や糞害も深刻でしたが、何より迷惑だったのはゴミ漁り。当時、都内のカラスは大半が代々木公園を根城にしていて、渋谷や新宿などの繁華街で深夜に出されたゴミ袋を散らかすため、街の美観を大きく損ねていました。
もっとも、石原氏がカラス対策に乗り出した直接の原因は、“ゴルフ中にカラスにクラブを投げつけたら反撃された”というもの。実行力もさることながら、乗り出した経緯も石原氏らしいですね」(前出・週刊誌記者)
日本は現在、コロナ第6波の真っ最中だが、石原氏がトップだったらどう振る舞ったのか──そんな期待を抱かせることこそ、政治家に最も必要な能力なのかもしれない。